2017年12月12日火曜日

センター試験 英語対策 featuring ミスiD2018

この度、勝手にテスト問題を作ってみました。

※一問一答&会話の空所補充のみ(計21題)。さすがに全部はキツいので。

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【センター試験 英語対策 featuring ミスiD2018】

\全問題で『ミスiD2018』ファイナリスト&関係者名の使用に成功/

https://drive.google.com/open?id=1Se1oUdBlrW1kOoUJ6lyeU4susV9SQvdH

<例題>  "Uyu" in kanji (     ) "playing rabbit".
       ① leaves     ② makes     ③ creates     ④means

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問題文全てに、ミスiD2018ファイナリストおよびウォッチャーにはお馴染みの人達が登場。
制限時間は特に決めてないので、あんまり肩肘張らずにやってみてね❤

ぴんと来た人もいるかもしれませんが、今年大ヒットした『うんこ漢字ドリル』と原理は同じ!
問題文が面白い→モチベーションが上がる、というやつですね。

TomとかBobとかElizabethより、UyuとかYaneとかRorurariの方がとっつきやすいはず。
(引き立て役として出てくるTsukasaにも注目。)
私が把握している受験生ファイナリスト(Maya/Sayaka/Kanano/Yusura)は全員入れました。

馴染みのある人の話 in English を眺めることで、「英語なんて分かんない、見たくもない」という思考回路が多少変わるといいなーという狙いもありつつ、作ってる私が楽しいだけかも。

解答・解説ページは1/4ぐらい雑談です。やる気のない人間が作った参考書だと思って読んでみてね。

一応、出題者=私の英語力(TOEICスコア)は


このぐらいです。(英検は準1級ですが、合格証書が実家なので写真が撮れない orz)
もちろん上には上がいるのは理解してますが、英語の勉強にはそれなりに時間を割いてきた人間です(帰国子女でもハーフでもない)。
あと、ミスiD観察も真面目にやってきたよ(こうして書いてみると気持ち悪い)。

※ただ、中学~高校時代の自分を振り返ってみると、勉強が好きということ以上に「自分から文系科目の成績を取ったら何も残らないのでは」という焦燥感から勉強していた気もする。
上記のTOEICスコアも、10代から始まる「自分の価値をどう証明するのか」という足掻きの産物だと考えると、少しほろ苦い気持ちになる。結果として良かったことは良かったんだけど。

そして、英語のテストで思うような結果が出せない人に一つ言いたいこと。

\\問題文の中に知らない単語が出てきても焦らないで//

全部の単語の意味を知らなくても、出題のポイントになる部分さえ理解できれば、解けます。

「全ての言葉の辞書的意味を理解しないと駄目だ」みたいな壮大なポリシーを掲げてる人なんかは特に、一つ分からない単語が登場しただけで「終わった」「死にたい」とか思ってそうだけど、実際は飛ばして読んでも何とかなったりするので、落ち着こう。

それでは、GOOD LUCK😉

2017年11月25日土曜日

ミスiD2018、というか「えもゆす」について



ご無沙汰しております。

昨年に続き、今年もミスiDを定期的にチェックした。
もう終わってしまったけど、個人的に推していた(というか今も推している)女子について書こうと思う。
名前は「朴ゆすら(えのもと ゆすら)」、通称「えもゆす」。

--【ミスiDとは】――――――――――――――――--
講談社が主催する「まだ見たことのない女の子を探す」コンテスト。
いわゆる芸能事務所のオーディションのような「今の芸能界で売れる条件を満たしている子」「最大公約数に受けそうな子」を発掘するものとは一線を画した斬新なコンテストで、候補者のキャラとプロフィールがバラエティに富んでいるので、見てて楽しい。

認知度を上げたい現役のアイドルもいれば、自分の可能性を試したい・自分を変えたいと応募してくる一般人の女の子もいるし、女子の心を持った男子もいる。
ジュニアアイドルやAV女優としての活動歴など、大手芸能事務所の選考ではマイナスになるような過去を持っている子も、むしろそれを武器にして人の心を掴んでいったりするから本当に面白い。
選考期間中に起こるいくつものドラマをSNSで目撃して感動するうち、気付けば病みつきに。
―――――――――――――――――――――――――
ミスiDでは、2回の審査(書類/SNSを使った選考 + カメラテスト)を突破した100人超の「セミファイナリスト」が7月にお披露目され、YouTubeにそれぞれのPR動画がアップされる。
この動画の中で、インスタント焼きそばを作って食べながら喋るという、前例のない自己PRをしていたのがえもゆすだった。


この時点で彼女は17歳、現役の高3。
小柄ですらっとした体型で、やや茶色っぽい髪はちゃんとセットされている。
顔立ちも整っているし、少し垂れ気味の二重の目は優しい印象で、客観的に見れば「可愛いJK」としての価値は十分にある。

しかし、敢えて制服ではなく部屋着姿で登場した彼女が動画の中で見せていたのは、自分と自分を取り巻く世界への冷めた眼差しだった。
インスタント焼きそばにお湯を注いでから3分経った時、彼女は完成した焼きそばを箸でつまみ上げ、こちらを小馬鹿にしたような笑みを浮かべて「ほらーJKが作った焼きそばだよー。欲しいかー?」というようなことを言いながら箸をかざした。
「JKだから」という理由で自分たちをちやほやしてくる世間(特に男)、そしてそれに乗せられていい気になってしまう自分自身をもドライに俯瞰している彼女の内面世界に触れ、はっとさせられた。

自分には特技と言えるようなものがない。焼きそばくらいは作れるけど。
ぼっちは努力が足りないと思う。自分には友達がいるし、高校生活は楽しい。
でも高校時代はずっと続かない。楽しい時代が終わったから自殺しよう、みたいな覚悟も自分にはない。何かを見つけたい。
焼きそばを作って食べながら、彼女はそんなことを語った。

放課後はプリクラに群がって騒いでるような華やかな子たちも、友達と離れて一人になった瞬間に、こんなことを思ったりするのか。
一人の女の子のモラトリアムの終わりに図らずも立ち会ってしまい、凄いものを見せられている! と感じた。
見終わってからも衝撃の余韻は続き、これはもう推すしかないね、という結論に達した。

プロフィールを見ると、けっこう読書家で、好きな本の一番最初に夢野久作「死後の恋」を持ってくる辺りがマニアックな印象。
他の子は「君の膵臓をたべたい」とかなのに。
(ちなみに好きな本の欄にこれを書いた子は3人ぐらいいたけど、うち2人は「君の膵臓食べたい」とか表記が正確でなく、ガチの本好きではないとみられる。)

そしてブログの文章がしっかりしている。
てにおはレベルの間違いなどはないし、変換ミスも少ない。
練炭自殺のことを「アロマディフューザー練炭の香り」と表現するあたり、センスが光る。
「スタバのマグに書いてもらえるメッセージみたいに、あれば嬉しいけど、別になくても困らない」みたいなことを書いた部分からも、自分の身の回りにあるものを深く見つめる感性が垣間見えて、才能を感じる。
(長い上に、改行が少なくて読みにくいので、サービス精神は感じないけど。ただ「私の文体なんで」って言い切るというのも表現者としてのやり方ではある。)

書かれている内容は決して穏やかではなく、母親との殺伐とした関係、放課後はイベントに積極的に通い「経験を積んで」過ごしたこれまでの高校時代、メンタルが安定せず遅刻が多いこと、自分の先行きに対する不安などが、カオスな文体で、フルボリュームで綴られている。
理由は明確に書かれていないが、自責の念があるらしく、「自分は48歳で死ぬ」という決意が何度か出てくる。
過去のトラウマが原因のように読めるものの、書かれていることのどれが実際に起きたことでどこからが比喩なのかが判然としないため、この辺はよく分からない。

ツイッターの自撮りでは、えもゆすは髪の色が明るくてスカートが短い、本当に今時のJKだ。
この見た目の子が書く文というと、「それな」「クッソワロタwwwwwwwwwww」みたいな短いやつを思い浮かべてしまうが、こんなに書きたいことがあったのか。ギャップが凄い。
呟き自体も「私は性悪説派だよ」とか棘のある言葉がふっと出たりして、見ていて面白かった。
えもゆすが、JK仲間の世界で受け止めてもらえないようなものを表現する場を獲得できたことを、異様に嬉しく感じた。
ミスiDに出たことで、これまでやり場のなかった彼女の言葉が読者を獲得したというのが感動的だ。

最終的に、彼女は見事「大山卓也賞」(審査員・大山卓也が、印象的だった子に贈る賞)に輝いた。
彼女の国語力&表現力は、ずっと編集の仕事をしてきて「ナタリー」を10年やり続けた人にも刺さったということだ。
快挙◎おめでとう!

彼女のブログには、友達が口々に「JKというだけで男はブランド物とか色々買ってくれて割がいい」「高校卒業したくない」と言う様子が書かれている。
えもゆすが生きている世界では、「若さと美貌で金を持っている男の心を掴み、経済的に不自由なく暮らせるようになることが女としての成功である」という価値観が支配的、ということだろう。
(彼女にとって大切な存在である友達を否定するように読めてしまったら心苦しいが…でもそれが率直な印象。)

しかしブログを読む限り、えもゆすの願望は「男に認められたい」ではなく「自分で自分のあり方に納得したい」である。
社会(or沢山の個人)にとって価値のあるもの(言葉?)を提供し、それに対する対価をもらって生きてゆくのが、彼女にとっての理想なのだと思う。
ただ、恐らく彼女には、社会にとって価値のあるもの(※男受けする美貌を除く)をどう生産するのかを本気で学んでこなかったという負い目がある。
だからこそ、若さと美貌で世間を渡ってゆくという生き方が、自分にとって一番現実的なのだという思考に陥りかけていたのではないか。
誰かにとって価値のあるものを創る存在になりたい。でも、そんなことが可能なのか。
PR動画に映っていたのは、そんな葛藤のように思える。

だから、自分が持っているJKブランド以外の価値を模索していたえもゆすに対して、編集のプロが「あなたの武器は若さではない」「いつか一緒に仕事がしてみたい」と言った意味は大きい。
要するにこれは、社会に対して影響力のある男にくっついておこぼれに与る人生ではなく、自分が社会or沢山の個人と直接関わって何かを生み出す人生を目指してみないか、というメッセージだと思う。
あなたにはそういう素質があるんだよ、という。

なので、彼女には今後も言葉による表現を続けてほしいし、周囲の声に流されて自分を見失ってほしくない。
(彼女が被写体をやった写真展に行って、激励レター&受験に利くお守りを渡したりしたのも、それを伝えたかったからなんですよ。伝わってるか分からないけど。)

世界を変えるために、ぼっちになる時が来たのだ、えもゆす!

追)本当は今日「ミスiDお披露目会」で本人に直接受賞おめでとうを言いたかったのだが、立て込んでいて無理だったので罪滅ぼし的にこの記事を書いています。
まずは受験頑張ってね。

2017年11月3日金曜日

異形の愛―仇になる親の愛と、伝わらない無条件の愛



会社員になる前、翻訳の勉強用に読んでいた『TIME』のブックレビュー記事で、"Geek Love"という本が紹介されていた。タイトルに惹かれ(「オタクの恋」という意味に解釈)、日本語訳=『異形の愛』を図書館で探して読み始めたのだが、かなり長い小説で、少ししか読まないうちに返却期限が来てしまった。その本は市区町村内の他の図書館から取り寄せたものだったので、また取り寄せる手続きをするのは面倒だなー時間ができたらやりたいなーと思いつつ、それきりになっていた。

しかし先月、『異形の愛』新訳版が本屋に並んでいるのを発見(訳者は旧版と同じ柳下毅一郎)。
その時は買わずに帰ったが、家に帰ってからもずっと気になり続け、新しい訳の方が読みやすそうだし、ちゃんと読みたいし、買おうという結論に達した。
税込 ¥3,456。決して安くない。でもこのボリュームの作品を訳す大変さは想像できるので、柳下さん、河出書房新社の皆様、お納めください。

タイトルで「異形」と訳されている"Geek"という言葉にはいくつか意味がある。「奇人、変人」という意味のほかに、最近では「オタク」の蔑称としても使われている。(用例を見た印象だと、プログラミングマニアやネット廃人など、PCばかり見て社会性がない人を馬鹿にするニュアンスがある。)
そして、さらにマニアックな意味も。「芸人が生きている鶏の首を噛み切る、サーカスの芸の一種」。巻末の解説によると、日本の見世物小屋にある「ヘビ女」(女性が蛇に噛みついて生き血をすする芸)の欧米版だそう。
物語の冒頭で、移動サーカス団一家の娘として生まれた主人公が両親から聞かされる馴れ初めエピソードの中に、若かりし日の母が披露したギーク芸が登場する。生きた鶏の首を齧り、勢いよく飛び散る血しぶきに歓声が上がるサーカス小屋という空間は、世間の秩序や価値観が通用しない異界。"Geek"は、サーカスという一種のパラレルワールドで展開される物語全体を象徴するキーワードになっている。

この小説は、設定が分かった時点で、「それ倫理的に大丈夫なんですか⁉」という気持ちになる。
主人公はアメリカの移動サーカス団の三女として生まれたオリー(正式には「オリンピア」)。彼女には兄、双子の姉、弟がいるのだが、本人も含め全員に何かしらの身体障害ないし特殊な性質がある。
兄は腕と足がなく、肩と腿の付け根から直接指が生えている。双子の姉は胴の部分で体が繋がっていて、離れられない。オリ―はアルビノで、背中にコブがある。一番下の弟は、兄や姉のような目立った身体的特徴はないが、物を触らずに動かせるサイキック…。
何の障害もない両親から、このようなバラエティに富んだ子供たちが生まれたのには理由がある。子供に障害が出るよう、父親は薬物や殺虫剤を入手し、母親はそれをわざと妊娠中に摂取していたのだ。(サイキックの子が生まれたことだけは完全に想定外だけど。)
両親は、決して悪意からこういうことをやっているのではない。根底にあるのは、サーカスの世界では強みとなる特殊な見た目を子供に授け、食べるのに困らないようにしよう、という愛だった。
母は言う。「子供へのプレゼントにこれ以上のものがある? 自分自身だってだけでお金を稼げる能力以上のものが?」

しかし物語が進むにつれて、この愛が子供たちの人生に影を落とし始める。
青年期を迎え、外の世界の人間が自分たちに向ける蔑みや嫌悪感に触れて、自らの特異な体がもてはやされるのはサーカスという世界の中だけだと気付く子供たち。その認識はやがて「サーカスで客を集められなければ自分は価値のない人間なんだ」というプレッシャーに姿を変え、それぞれの人生を蝕んでゆく。

そのプレッシャーに最も苦しめられるのは、長男のアーティー(正式には「アルチューロ」)だ。美しい双子の妹のピアノ連弾ショーにいつも売り上げで負け、サイキックの弟のような凄い能力もないアーティーは、激しい劣等感を抱く。
自分の芸がなく、主に呼び込みや雑用を担うオリ―はアーティーに献身的に尽くすが、アーティーは日々の不満をオリ―にぶつけ「お前は稼げない」と暴言を吐く。

やがてアーティーは、神から遣わされたメッセンジャーというキャラクターを確立し、観客に助言を与えるショーをあみ出す。ショーは大当たりし、アーティーは遂に売り上げで双子を抜く。
アーティーはメディアにも取り上げられ、アーティーの熱狂的なファンがサーカスに詰めかけるようになる。アーティーと仕事をしたいと、サーカスのメンバーに加わる者も現れた。しかし、ファンやイエスマンを従えたアーティーの発言力が増すと共に、一家の人間関係に綻びが生じ始め、サーカスは崩壊へ向かってゆくのだった…。
(ネタバレするのもアレなんで、あらすじ紹介はここまで。気になる方は読んでみて下さい。)

読み始めた時点では、サーカスという異常な世界の人間模様を垣間見ている=他人事として見ている感覚だった。
しかし読み終えてみると、この作品が扱っているテーマは、案外普遍的なものだと気付く。

まず、親が子供のためを思ってやることが、本当に子どものためになっているのか、というテーマ。
この作品で主人公の親がしたことを現代の日本でやれば、即・犯罪者扱いされるだろうし、「虐待」「人権侵害」などの批判は免れないだろう。でも、親がよかれと思って子供の人生に働きかけること自体は、ごく普通に行われている。珍しい名前をつける。習い事に行かせる。似合うと判断した服を買って着せる。英才教育をする。タレント養成所に入れる。オーガニック食品以外は食べさせない。勉強の妨げになるゲームや漫画を買ってやらない。等々。
どの場合も、親に悪気はない。しかし時として、それが子供の可能性を狭めてしまうことがある。

オリ―をはじめ、サーカスの世界で生きることを前提に「デザイン」された子供たちにとって、外の世界で生きる選択をすることは難しい。障害があることは外の世界(恐らく第二次世界大戦前後のアメリカ)では単なるハンデとしか見做されないし、学校に行かず家業を手伝って生きてきた彼らは、外の世界の人々と同じ知識を共有していないのだ。
この話は、キッズタレントや子役として活躍していた人が大人になって行き場を失くすケースと重なるように思う。芸能界で生きてゆく前提で「デザイン」されてしまったことで、あまり学校に行かず仕事やレッスンに明け暮れる生活をした結果、潰しが利かなくなる、みたいな。
親は子供に特別な体験をさせることに意味を感じてそういう選択をしたのに、それが仇になってしまう。程度の差こそあれ、こういう話は沢山ある気がする。
親の子供への愛情が行動として現れる時、それは必然的に価値観の押し付けとセットになってしまい、多かれ少なかれ歪んだものになるのかもしれない。

もう一つは、無条件の愛を信じられるか? というテーマ。
自分より客を集められる双子の妹にコンプレックスを抱くアーティーが、自分を無条件に慕っているオリ―の気持ちを素直に受け取れないくだりで、特にこういうことを考えさせられた。
親は、どの子も同じように大切だと言う。でも現実には、より売り上げに貢献した子が褒められる。サーカスへの貢献度が低い自分は、双子と同じだけの愛を得る資格がない――アーティーのそういう思考回路が、オリ―や両親やサイキックの弟が彼に大して持っている無条件の愛情を見えなくさせてしまう。「調子のいいことばかり言いやがって、どうせ心の中ではバカにしてんだろ」という風にしか思えなくなってしまう。こういう状況に陥ることは、恐らく誰にでもある。

というか、10代~20代前半ぐらいまでは、私も割とそういう感覚で生きていた。「この世のすべては交換条件で与えられるんだ」「何かを得たいなら何かを差し出さなくてはならない」「人に何も与えられない人間が何も貰えないのは仕方ないこと」という論理が、自分の中で支配的だったように思う。
でも成長する中で、もう少し感覚が大雑把になってきた。その時点でもらったものと同レベルのものを相手に返せなくても、数ヵ月後、数年後にそれができるくらい成長していれば相手も納得してくれる(場合によってはむしろ喜んでくれる)ことに気付く。そして自分が逆の立場でもそう思えるようになっている。
あと、「等価のものを交換できてるか」をあまり綿密に考えなくなった。友達が家に来ることになって、部屋を片付けている時は面倒な気持ちになっていたが、いざ相手が来て帰ってみると、一緒に楽しい時間が過ごせてよかったなーという満足感だけが残る。昔だったら「掃除にかかった労力と楽しさを比べたら、プラスかマイナスか」みたいなことを考える感覚があったけど(だから人を呼ぶことはほぼなかった)、今は楽しかったんだからもういいよねーという感じ。


こういう変化が起きたのは、恐らく自分が人に与えられるものや、人から貰うものの価値を単純に比較できないと認識したからだ。人生の途中で「学年」「〇年入社」みたいな括りが消えたことで、同い年・同年代の子たちと能力やアウトプットを比べられることがなくなった。成績や人気度の分かりやすい指標がない世界では、自分や人をもう少し柔軟に評価できるようになるし、自分の評価が絶対ではないことにも気付く。能力に関係なく、無条件の思いやりを持って接してくれる人もいると分かる。
こういう環境にいると、条件付きではない愛の存在を信じる方向に心がシフトしてくる。

そう考えると、常に売り上げで弟妹と比べられる環境に生まれてしまったアーティーに、無条件の愛を信じろというのも厳しいかもしれない。
実際、物語の後半でオリ―が自分の思いを表現しようとものすごい行動に出ても、アーティには伝わらない。切ない。

非現実的な設定にも関わらず、読み進むうちに意外と登場人物に感情移入できてしまったのが驚きだった。
サーカスの奇怪なエピソードを挙げて終わりではなく、一家のそれぞれのキャラクターの内面や失われてゆく団欒が丁寧に描かれていて、本質的にはホームドラマだった。枝葉の部分は怪奇小説だけど。

しかし、奇怪なものが好きな人の期待も決して裏切らない。異形の兄妹たちに加え、解剖マニアの外科医、死刑囚と文通する女(不細工なのに美人の写真を自分だと偽って相手に送る!)、猟銃自殺に失敗して顔のほとんどがなくなってしまった男など、濃いキャラが続々登場。こういうキャラを思い付く作者の脳内はどうなっているのか。怖い。
丸尾末広とか、江戸川乱歩なんかが好きな人には向いている気が。

どんどん夜が長くなるこの季節。『異形の愛』、いかがでしょうか。

2017年8月27日日曜日

写狂老人A アラーキーの写真に救いを見た夏の日

 
アラーキー(荒木経惟)の展覧会「写狂老人A」を見に行った。



会場である東京オペラシティアートギャラリー。
遊女スタイルのおねーさんに睨まれながら、エスカレーターで3階の入口へ。


会場に一歩足を踏み入れると、左右に巨大な女性のモノクロヌード写真がざーっと並ぶ細長い通路が現れ、来場者を迎え撃つ。
(厳密には2枚ぐらい男女の着衣の全身写真もあったが、横にヌードがあると必然的に存在感が薄れる。)
この『大光画』というタイトルの連作の被写体は、すべて無名の女性たち。若い女性、中年、熟年…年齢層は幅広い。

巨大な写真群に衝撃を感じるのは、決して「ヌードだから」ではない。
身も蓋もない言い方をすると「整ってないヌードだから」だ。

中年・熟年女性の写真には、お腹で段になっている肉、背中のたるみ、肌のシワなどがダイレクトに映り込んでいる。
世に氾濫するAV女優やプレイメイトなんかの、男の理想を具現化したヌード写真とは対極にある写真。
たるんだ部分を写さないとか、布団や衣類で誤魔化すなどの工夫もできたはずだが、アラーキーはただただ、ありのままの彼女たちを写真に収める。

女性たちの表情からも、グラビア写真的な男を挑発する意図は感じられない。
アラーキーとの会話でリラックスした結果なのか、日常の延長線上にあるような自然な表情だ。
大きい胸、小さい胸。引き締まったお腹、たるんだお腹。小さめのお尻、大きめのお尻、垂れているお尻…。
若い子の写真もおばちゃんの写真も、全部同じ大きさで展示された空間の中で一つ一つの裸体と向き合ううちに、私はアラーキーがこの空間に込めたメッセージに触れたように思った。
お姉ちゃんの身体も、おばちゃんの身体も、みんな同じように価値があるよ、ということではないだろうか。

平らなお腹やハリのある肌は、この世に生を受けてからの日が浅い証。
たるんだお腹や身体のシワは、この世で重ねてきた時間の証。
アラーキーはきっと、それぞれの人生が刻まれた肉体一つ一つに、同じリスペクトと愛情を持ってカメラを向けてきたのではないか。

女として生活していても男性向けのコンテンツのグラビアやヌードを目にする機会はたまにあるが、そういう写真の中の完璧なボディ(補正の結果もあるだろうけど)からは静かな圧力を感じる。
男に愛されたいなら、たるんだ肉を何とかしろ、胸はこのぐらいのサイズであるべきだ、とか言われている気分になり、少し自信が失われる。
ファッション誌のダイエット特集やエステの広告にも、そういう圧力はある。女として生きる以上、身体の査定からは逃れられないのか…と思う。

しかし、この展示室の中で、私はそういう圧力から解放されていた。
腹が出てるから被写体になる価値がないなどと、アラーキーは決して言わないだろう。
あなたの人生が刻まれた世界に一つの身体なんだから、ちゃんと撮っておいてあげないとね、みたいな大らかさが、作品から溢れている。
女性の存在そのものへの愛とエールに、ちょっと救われた気分。

📷
 
巨大ヌードゾーンを抜けると、空を写した小さなモノクロ写真が大量に展示されている壁『空百景』、同様に花を写した写真の壁『花百景』が続く。
亡き妻・陽子さんとの結婚記念日である7月7日に撮った写真だけを大量に並べた部屋(『写狂老人A日記 2017.7.7』)、八百屋のおじさんを撮った初期の写真のスライドショー(『八百屋のおじさん』)、デジカメの日常スナップのスライドショー(『非日記』)、ポラロイド写真のコーナー(『ポラノグラフィー』)などがあり、アラーキーのささやかな日常風景が繰り広げられている。

たまに女の子の人形と大人のおもちゃが一緒に写っているようなアラーキー流エロ写真もあるものの、このセクションからは、少しの淋しさを含んだ穏やかな空気を感じた。曇ってるんだけど、涼しくて過ごしやすい日のような。晩年を迎えたアラーキーの、生活者としての側面に触れた気がした。

📷

次の部屋には、日本庭園や和室をバックに、着物が半分はだけている遊女たちを撮った連作『遊園の女』が。
遊女たちの唇には赤い口紅が塗られているのだが、さらに下唇の真ん中だけ玉虫色に塗っている女性が何人かいて、セクシーさとグロさが混ざり合った強烈な風貌になっていた。
同じような玉虫色、または土気色の蛇のおもちゃが脇に置いてあったり、女性の太腿を這っていたりするのも、グロさに拍車をかける。
床の間に交尾する豚の陶器が置かれているのも生々しい。
鑑賞ガイドによると、この連作は「遊郭から逃げようとする遊女を女衒である荒木がとらえるといった場面をイメージした情景」だという。
確かに、女性たちの表情はどれも、どことなく退廃的。
脚を開くなどのエロいポーズをしつつも、表情は全く楽しそうではなく、運命に抗うことを諦めたような虚ろな雰囲気。
でもそれがエロい。女の諦観漂う表情が、見る側の背徳感を喚起するからなのか。
拒絶されても求め、カメラを構えてしまうアラーキーの視点を、私もいつの間にか追体験している。こういう興奮と切なさが混在する情景にエロスがあるのだというアラーキーの美意識に、なんか納得させられる。

金や安全や保障された生活を与えて繋ぎ止めようとしても、女は逃げる。
縄や力で言うことを聞かせても、女の心は支配できない。
作品の根底にあるのは、そんなアラーキーの女性観であるように思う。
一番最初のヌード写真と同様、この部屋の写真は、男のためのファンタジーヌード/グラビアとは一線を画すものだと感じた。

以前、女子中学生が大学生の男に2年間監禁された事件の記事をネットでランダムに読んでいたら、少女を監禁・調教するエロゲやエロコンテンツに対する批判の記事を見つけた。
この手のエロゲ/エロコンテンツにはよく「最初は恐怖で心を閉ざしていた女の子が、主人公の不器用な愛を少しずつ受け入れ、または主人公のテクニックによって性的快楽に目覚め、最終的に両想いに」という超ご都合主義ハッピーエンドが用意されていると書いてあり、「はぁ?」と思った。

アラーキーの連作でも、男が女を拘束するというストーリー自体は同じである。
しかし、その中にいる女は、エロゲのヒロインのような男の欲求を具現化した存在ではなく、意思を持った本物の女だ。
肉体関係を結んで一瞬だけ一つになったとしても、究極的には他人でしかない女の心を支配することなど、できるはずがない。写真の舞台は虚構でも、写っているのは紛れもないリアルだ。

自分で作った都合のいいフィクションの中に籠ったりせず、あくまでも生身の女と正面から向き合おうとするアラーキーの姿勢に、改めて感動。こういう男性が増えてほしいなぁ。
アラーキー先生、女に非現実的な理想を押し付ける男に、喝を入れてやってください。

📷

そして最後の部屋。『切実』と名付けられた空間には、全く関連のない2枚の写真を真っ二つに切り、一方の右半分ともう一方の左半分を貼り合わせた写真が、ランダムに壁に貼られている。
どこかの道端のスナップと植物の写真、食べ物の写真とポートレート写真…といったように、(少なくとも見ている側にとっては)無関係な2枚の写真の片割れ同士がくっつけられ、バラバラと壁を彩る。

抱き合わせになった2つの情景たちの中を歩いていると、アラーキーの脳内のとりとめのない記憶の中に紛れ込んでしまったような錯覚に陥る。
そして、自分自身の記憶も、この写真たちと同じくらいランダムで掴みどころのないものなのでは、と気付く。
同じ日に起こったことなのに、記憶の中では別の日の出来事だと錯覚したり。
客観的に見れば何の結び付きもない二つの出来事に、何故か同じ感情を抱いたり。
綺麗な景色を見たことは鮮明に覚えていても、そこに誰と行ったのかは思い出せなかったり。

写真が切り取る現実と、私たちが頭の中で現実だと思っているもの、どちらを信じればいいんだろう。
真実が宿っているのは、一体どちらなんだろう。
いや、そもそも写真だって、撮る人間の主観から自由になることはできない。
もしかしたら、私たちが生きている現実世界なんていうものは、私たち自身が作り出した虚構にすぎないのかもしれない…。
これが、70歳を超えたアラーキーが、己の写真人生の果てに辿り着いた結論なのか。

展示室を出ると、目の前の景色や自分自身の輪郭が薄まってゆくような錯覚を覚えた。
もしかして今日見たものも、今見ている世界も、虚構?

📷

そんな感じで、かなり見応えのある展覧会でした。
一番印象的だったのはやはり、『大光画』と『遊園の女』。
こんな風に女性を撮ってくれる男性が日本にいるということに、ささやかな希望を見た。

今年はアラーキーイヤーなのか、東京都写真美術館(通称TOP←大きく出たなぁ)も、アラーキーの『センチメンタルな旅』展を同時開催している。
『写狂老人A』の半券を持っていくと料金が安くなるらしいので、こっちも見なければ!


2017年8月26日土曜日

続・一人出版社


「一人出版社」で触れた、自作のZINEの続報(遅い)。
 
ここで買えます。
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【WEB】 MOUNT ZINE
 直: https://zine.mount.co.jp/97

 一覧表示: https://zine.mount.co.jp/webshop/


【実店舗】 MOUNT tokyo
 東京都目黒区八雲2-5-10
 東急東横線 都立大学駅 徒歩6分
 https://zine.mount.co.jp/shop/
_______________________________

販売は11月上旬ぐらいまで。

素敵なZINEが多数あるので、私のに限らず是非チェックを♡
本好きな人は、時間があるなら実店舗で立ち読み→購入がお勧め。迷う時間が楽しい!

2017年7月17日月曜日

ノーモア、性格美人。



この世からなくすべきなんじゃないか、と思う言葉がある。

「性格美人」。

ポジティブな意味で使われる割に、結果的に誰も幸せにしない言葉だなぁと感じる。

私がこの言葉に出会ったのは、恐らくファッション誌の後ろの方にある読み物ページだった。
読者からの人生相談とかカルチャー紹介に混じって掲載されている「どういう女の子がモテるのか」というテーマの記事の中に出てきた。
明確に覚えてはいないが、「愛される子は、やっぱり性格美人!」「見た目だけじゃダメ。ちゃんと内面も磨いて、性格美人を目指そう!」みたいな文脈で登場していた。

要するに「性格がいい女性」を意味する言葉であり、一見「まあそういう表現もアリかな」という気持ちになってしまう。しかしこのフレーズを覚えてしまい、普段の会話の中で使うと、悲劇の始まりである。

例えば私の友達に、誰に対しても分け隔てなく優しく接し、温厚で気配りができ、常に感謝の心を忘れず、困っている人には迷わず手を差し伸べ、いじめは絶対に許さない、要するに性格のいい女の子がいたとしよう(名前は「清澄白河ちゃん」とする)。
白河ちゃんは本当にいい子だなぁ。心が私のようにドロドロしてなくて、澄み切っている…。
彼女の心の美しさに常々感動している私は、その思いを誰かと分かち合いたいと思い、こう口にした。
「清澄白河ちゃんって、性格美人だよね」

純粋に、性格を褒めたくて発されたこの台詞。
しかし冷静に考えてみると、「性格美人」という言葉が使われたことで、白河ちゃんに対して私が抱いているもう一つの思いがあぶり出されてしまっていることに気付く。

もし白河ちゃんが、佐々木希とか白石麻衣とかトリンドル玲奈レベルの顔面偏差値の子だったら、私はこんな表現をしただろうか。
その場合は恐らく、「清澄白河ちゃんは、美人だし、性格もいいよね」と言っていたのではないか。

「性格が」美人である、とわざわざ言うのは何故か。
恐らく、相手に「美人」と言えるだけの見た目のスペックがないという認識があるからだ。
潜在意識の中にある相手の容姿への評価が、この言葉をセレクトしたことで結果的に表面化してしまう。

「性格美人」は、褒め言葉風でありながら、実際に使ってみると「見た目がいまいちで性格のいい女性」という意味になってしまう恐ろしい言葉だ。
「性格美人になろう!」みたいな形で使われる分には問題ないが、誰かを褒める目的で使われた瞬間に、言われた方は地味に傷つき、言った方も褒めるという目的を果たせない。最悪である。

という訳で、私は「性格美人」という言葉の根絶を密かに願っている(「心のイケメン」に関してもそう)。

ご賛同いただけた皆様。「性格美人」、今後一切、使うのやめましょう。

2017年5月28日日曜日

一人出版社

本を出しました。

※自費で。

※厳密には、本というより『ZINE』。

ZINEというのは、個人が発行する雑誌・小冊子全般のことで、"magazine" "fanzine(ミュージシャンやスポーツチームのファンなどが作るファン雑誌、の意味)" の語尾が語源。
アメリカ・ポートランドのスケーター(スケートボードやってる人ね)が、スケートカルチャーに関する冊子を自分で作り始めたのがZINEの起こり。

しかし今では、ZINE作りはスケーターの枠を超え、クリエイター全般に広まっている。
自分の興味のあることを特集したり、自分のイラスト、写真、漫画、小説、詩などを発表するツールとして、ZINEはアメリカ国内&海外でも関心を集めている。

美容院に置いてある雑誌のカルチャーコーナーとか、こだわり系ブックストアの一画なんかで『ZINE』という言葉を見る機会はあったけど、その時は「ふーん」くらいにしか思っていなかった。
イラストレーター、画家、写真家、グラフィックデザイナーのようなアートのプロが、出版社に縛られずに自分の作品を見せたくて作るものなんだなー、会社員やってるだけの私なんかが作ってもしょうがないなー、という意味の「ふーん」です。


でも今年の2月、たまたま阿佐ヶ谷の映画館のロビーで、このチラシを発見した。


MZ = MOUNT ZINE というイベントのチラシである(しゃれおつ)。
MOUNT tokyo というZINE専門店が主催するイベントだという。
ドリンクを飲みながらZINEを見て、時間帯によってはZINEを作った人と交流もできるという催しで、半年に一回ペースで行われているとのこと。
しかも今回は、出品されたZINEのうち先着100冊を、アメリカのロサンゼルスで行われるZINEフェスティバルにも出品してもらえるという特典がある。

プロのクリエイターが作ったZINEを見られるイベントってことかな、しかもL.A.のフェスティバルとも連携しているとは。
本もビジュアルブックも好きだし、見に行ってみようか、という気持ちで、イベントのサイトに行ってみると。


ん? 敷居が低い?
「これから作ってみようと考えている方も大歓迎」?

イベントの日程を見ると、5月20日(土)、21日(日)。
ってことは……仕事として作品作りをする時間がとれない会社員でも、ゴールデンウィークを使えば、できなくもない?

そして私は3月、エントリーしてしまった。
ギリギリで、L.A.に出してもらえる100冊に入った(会費の支払いが翌日だったら恐らく漏れてた)。

ゴールデンウィークにどこにも行かず、できたのがこれ。


COOLじゃないJAPANを、ユルく紹介する感じのZINE。
全ページ 英語・日本語 併記。
800円。
もっと安くできればよかったんだが、時間がなくてそこまで研究する余裕がなく orz

作者名は「UKIYO PRESS」です。
水溶きかたくり子をローマ字で何度も書くのしんどい=読むのもしんどいだろうからねっ。
もやは一人出版社状態。

なお、同名義のインスタも開設しました。
アプリなくても、ここから見られる模様:
http://hviv.org/user/5469187091

このZINEは先週のMOUNT ZINE 13でお披露目となり、6月~11月まで MOUNT tokyo(東急東横線 都立大学駅から徒歩7分ぐらい)およびMOUNTのウェブサイトで販売される。
(MOUNT ZINE 始まる前にブログで告知しろよって話ですよね。すいません。)

そして今頃は、L.A.のZINEフェスティバルに並んでいる……。

どうなる、私のZINE!!

※MOUNTウェブサイトでの販売始まったら、情報追加します(そして制作を振り返って反省点をまとめたりもしたい)。
↓ MOUNT tokyo=リアル店舗の情報はこちら↓

場所:
https://zine.mount.co.jp/shop/

営業・休業情報:
https://twitter.com/mount_co_jp?ref_src=twsrc%5Etfw&ref_url=https%3A%2F%2Fmount.co.jp%2F

2017年3月7日火曜日

白シャツ考


 
この前本屋で『my LIFE my STANDARD』という本を衝動買いした。オンワード樫山のブランド・23区の23周年を記念したムックで、スタイリスト・フードコーディネーター・作家など様々なジャンルのプロたちが女性の人生を豊かにする23のスタンダード(習慣)を提案するというコンセプトで作られたもの。提案はファッションだけでなく、料理や音楽、余暇の過ごし方まで多岐に亘る。
提案の一つに、スタイリスト・飯島朋子さんの「白いシャツを愛でる。」というのがあった。白いシャツは店で実際に手に取って選んだ方がいいよというアドバイスと、新しい白シャツの着方のアイデア(ボタンを留める位置を変えてみる/腰に巻く/別のシャツとボタンを繋げて不思議なシルエットを楽しむ…など)が紹介されていた。
そういえば昨年末、私も白シャツについて真剣に考えたのだった。記憶が蘇ったついでに、その時のことを書いてみる。

* * * * * *


年末の大掃除で、一人暮らしを始めて五年近く整理しなかったクロゼットを、遂に片付けた。大学生の頃に買った服なんかはもう着ることがなさそうなデザインのものもあり、最終的にゴミ袋(大)2~3個分の服を捨てた。
捨てる服と残す服を選り分ける作業中、タンスの中から一枚の白シャツが現れた。就職活動の時に買った、スーツカンパニーの長袖シャツ。スタンダードなアイテムのはずなのに、何故か何年も袖を通さないままだった。カーディガンの下に着るとか、いくらでも着回しできそうなものなのに。
私は、何でこれを着ようと思わなかったのか。シャツをじっと見ているうちに、少しずつ理由が分かってきた。そのシャツの襟は大きく、糊が利いていて、尖り気味だ。就活用に売られているシャツはみんなそうなので、私も何の疑問もなくそれを買った。このシャツをスーツの下に着ている時は、何の違和感もなかった。当然、働き出してからも着るだろうと思っていた。

噂の就活シャツ

でも、セーターやカーディガンの下に着た時のことを思い出すと…襟ばかり主張してしまって、何となく収まりが悪かった。ボタンが小さめなクルーネックのカーディガンと合わせた時は特に、襟の大きさとボタンの小ささが、どこかちぐはぐな印象だった。そうか、それが、このシャツを手に取らなくなった理由なんだ…。「白シャツ=着回しできる万能アイテム」という刷り込みのせいでずっと捨てずに取っておいたが、私の潜在意識の中には確かに、このシャツへの違和感があった。

遂に、このシャツを捨てるべき時が来た。就活目的で買った惰性の白シャツではなく、本当に使える白シャツを買おう――。悟りの境地に達した私は、白シャツを手に取り、捨てる服の山に重ねた…。
年が明け、私は自分が思い描く白シャツを探し始めた。家でパソコンを開いて、メールチェックなどの作業が終わると服の通販サイトに飛び、ひたすら白シャツばかり見る日々が始まった。
スタンダードなアイテムなので、どのサイトでも白シャツは売られている。しかし、だからこそ、自分が求めているデザインを見つけるのは至難の業だ。「シャツ」「白」でソートしても、無限に候補が出てきてしまう。白の種類も、蛍光灯のような青みがかった白から生成りっぽい白まで、かなり幅広いことに気付く。

私が欲しいと思っていたのは、しっかりした生地で作られた、程よく堅いシルエットの白シャツだ。色は洗濯物のCMに出てくるような、青さも生成りっぽさもない純粋な白。会社に着ていけるかっちり感はほしいが、大きくて尖った襟でデキる女アピールするのは嫌だ(勝間和代的な)。

うん、やっぱ襟尖ってる

ベーシックなアイテムだからこそ、今度こそは納得のいくものを買って、ずっと着たい。劣化したら同じデザインのものをまた買って着続けたいと思えるものが欲しい。妥協はしない。とことん探す!

白シャツの無限地獄を、私は何週間も彷徨った。New YorkerとかNatural Beauty BasicとかMARGARET HOWELLとか、ベーシックな服を作っていそうなブランドの名前を思い付く限り検索し、通販サイトのスクロールを繰り返す。しかしピンと来るものはなかなかない。

襟が丸すぎて、会社に着て行くのは子供っぽいなぁとか。


ナチュラルな感じは可愛いけど、生地が薄すぎてすぐ皺になりそうだなぁとか。


ちょっと襟が小さくてイメージと違うなぁとか。


だが遂に、私は出会った。運命の白シャツに。

MY DESTINY
逃れ逃れ辿り着いたMACKINTOSH PHILOSOPHYのサイトに、この子はいた…。
襟の形が、本当に絶妙。
尖ってないけど、丸襟じゃない。角を丸めたカードのような、柔らかいけど芯のあるフォルム。
仕事はしっかりやるけど、ユーモアも分かるお姉さんみたいな。
これだよ。これですよ。パソコン前で一人、ガッツポーズ。

飯島さんに言われた通り、店に行って試着し、購入。
生地の硬さもちょうどよかった。着た後に皺伸ばしスプレーをしておけば、その都度アイロンがけしなくても何とかなるだろう。
案の定、このシャツは平日・土日を問わず、大活躍してくれている。
もし今の白シャツが駄目になった時は、絶対同じ形のやつを買う。私の定番でいてもらう。

この経験を通して、ありふれている故に奥深い白シャツの世界を思い知らされた。
自分が着たい白シャツを突き詰めることで、自分がどうありたいかまで見えてきてしまうとは…。
私が選ばなかった白シャツも、誰かにとっては運命の一枚なのかもしれない。通販サイトで目にした、似ているようで少しずつ違う白シャツたちは、どんな人に選ばれてゆくのだろう。想像するとちょっと楽しい。

「マイ白シャツ」を見つける旅、おすすめです。

2017年1月31日火曜日

コンドルズ、永遠の男子たち~学ラン脱がずに20年~


コンドルズの公演『20 Century Toy』を見に行った。
人生初の生コンドルズ。

高校の頃だったと思うが、今はもう廃刊になってしまった雑誌『MUTTS』で、学ランで踊る男性コンテンポラリーダンス集団がいるという小さい記事を読み、彼らのことを知った。数年が経ち、NHKの深夜番組『サラリーマンNEO』内のコーナー『サラリーマン体操』でコンドルズのメンバー数人が踊っているのを発見し、本気の公演はどんな感じなんだろう、見てみたいと思った。ダンサー=キレキレの動き、というイメージがあるけど、彼らのダンスは程よくユルく、笑いがあり、たまに怪しかった(ピアノ担当の石渕聡っていう人の表情が特に)。

でもコンテンポラリーダンスを見る習慣がない私は、彼らがどのくらいの頻度で公演を打っているのか分からず、何か見に行きたいと思い立っても情報が手に入りやすいミュージシャンのライブに行ってしまうことが多かった。今回ちょうど良いタイミングで公演情報をキャッチし、東京芸術劇場ならそれほど遠くないし行ってみるか~と思ってチケットを買ったわけなんです。
ちなみに公演のタイトル『20 Century Toy』は、コンドルズが旗揚げ20周年であることに由来している。20年。赤子が成人してしまうほどの長い年月、彼らは、学ランで、踊り続けた……。考えてみると凄い。

で、当日。
薄暗い会場に入り、席へ。後ろの方だけど、ちょうど舞台を真正面から見られる好位置◎
驚いたのは親子連れの多さ。チケットをよく見ると、「0歳児から入場可。3歳以下は膝上鑑賞無料(席が必要な場合は有料)」の文字が!
照明が落ちて案内が流れ始めると、子供が声を出して鑑賞しても全然OKという公演のコンセプトが説明される。そんなんあるのか。コンテンポラリーダンスは一つの芸術であり、ダンサーの繊細な動き、衣擦れの音まで漏らさず鑑賞すべき、会話厳禁、みたいな人達もいると思うんですが、コンドルズの場合はむしろ声を上げて笑ってOKなのか。いわゆる芸術っぽさとは対極の、アットホームな雰囲気に驚く。

しばらくして、ステージの照明がオン、音楽が流れ始める。学ランの男性が十数人、3~4列に並んで踊り出す。おお、これが噂の……!! どう見ても学生時代を終えてる成人男性たちの学ラン姿に、なんか笑う。
「ずいぶんバラバラだなぁ」というのが、ダンスの第一印象だった。脚の上がる角度やターンの速さといった動きの点でもそうだし、身長や体格、そしてヘアスタイルが……。黒が多いけど、赤、シルバー、金パでロン毛、、スキンヘッド、各種取り揃えてお待ちしております。な感じ。金パでロン毛の人は必然的に髪がなびくため、不揃い感が強め。
「ウエストサイドストーリー」みたいな、ダンサーが脚を上げる角度が全員そろっている状態をグループダンスの頂点とするなら、このバラついてる感じって微妙なんじゃ、という思いがよぎる。

しかし不思議なことに、その無秩序っぷりが、徐々に楽しくなってくる。何というか、男子校の体育祭の応援ダンスタイム(そんなんあるのか)を特別に見せてもらってるような、集団全体じゃなく踊ってる一人一人を見る楽しさに気付くのだ。
あの人キレキレだなぁ。あの人は体格いいし、同じ振りをやってもコワモテだ。小粒な人もいる。ぽっちゃりめな人、すらっとした人。リズムの取り方も、アクセントになる音が鳴った瞬間にバシッとポーズを決める人、半秒置いてポーズをとる人、色々だ。最初は鑑賞モードだったのが、だんだん力が抜けてくる。
そうだよな。誰でも、踊りたいと思った人は、踊ればいいんだ。「脚が真っすぐ上がらない奴は踊っちゃダメ」とか「このタイミングでポーズが決まってないと失格」とか言い始めると、全身で音と戯れる楽しさからどんどん遠ざかっていくもんなぁ。人が踊る原点について思いを馳せてしまう。

コンドルズだし鳥の写真にしよう、と思ったらハトのしかねぇ

学ランタイムが終わり、その後はコント、白シャツ+ズボン姿の芸術性高めなダンス、二人がマシュマロをトスして食べられたり食べられなかったりする無言劇、操り人形を使った笑えるダンス、セサミストリートのパクリ『スサム(荒む)ストリート』、組体操で富士山やお屠蘇の急須などのシルエットを作る余興、舞台の上に設置したカメラを使ったパフォーマンス、アニメーションなどなどが盛り沢山。
本気で遊ぶ大人の男子たちは輝いている。いいなぁ。人生にこんな時間があるなんて羨ましすぎる。

印象的だったのは、やっぱりコント。子役事務所『劇団サンフラワー』を舞台に、子役と熱血社長、彼らを見守る近所の居酒屋のおばちゃんの物語が展開される(ライバルイケメン子役も少しだけ登場)。
どう見ても30過ぎてるオッサン4人が、ピチピチのTシャツや半袖シャツに短パン姿で子役に徹してる違和感……。事務所社長(モデルは坂上忍かなぁ)の「泣け!! 最近一番悲しかったことをイメージするんだ! 具体的に!」という罵声に「うわーん」と泣く演技を始める大きなおともだち、という図が強烈。
子役業界にイケメンの波が押し寄せ、サンフラワーの稼ぎ頭ヤマモトくん(坊主キャラ)は、ライバル事務所のイケメン子役・カトリに仕事を取られてしまう。わずか五歳で世間に捨てられたと感じ、自暴自棄になるヤマモトくん。近所で居酒屋を営むおばちゃんは彼を哀れに思い、つまみとノンアルコールビールを出してやる。いつしかヤマモトくんは店の常連に。
ヤマモトくんが仕事にあぶれたサンフラワーの子役二人と店を訪れ、ノンアルコールビールで一杯やっているところに(子供なのにサマになりすぎ)、事務所の社長が迎えに来る。人生への絶望を吐露するヤマモトくんに、「俺は絶対にお前を見捨てたりしない!!」と熱く語りかける社長。希望を取り戻したヤマモトくんと子役たちは、心機一転、演技の練習を始めるのだった。いつか、輝く日のために……。
良い話だなぁ。でも何だろう、この釈然としない感じ。

もう一つ、わりと真面目なダンスの中で、個人的にものすごくツボだったものがあった。
舞台の左手前から右奥に向かって、人が3列になって歩いてゆく。右奥からも、人が左手前に向かって3列で歩いてくる。奥に進む人と手前に向かう人がぶつかるところで、様々なドラマがある。
お互い手を差し出して、握手をしながらくるっと回って別れるペア。大きい方が小さいほうの身体をひょいっと持ち上げて地面に下ろし、小さいほうはされるがままになってしまうペア。一人が相手の顔に張り手をしながら向かってきて、もう一人はよけるしかないペア。長方形のステージのあちこちで展開される、沢山の、多種多様な出会いと別れ……何だか、私たちの生きる世界そのものだ。
手を取り合うこともあれば、力関係が生まれることもある。拒んだり、拒まれたりすることもある。私たちは一つ一つの関係性に一喜一憂するけれど、人と人が出会うというのはそういうことなんだよ、という一歩引いた視点が、ステージの根底に流れている気がした。深い。
さっきまでの笑いが消し飛び、しみじみしてしまった。

バラエティ豊かなステージが終わり、フィナーレ。学ランの男たちが一列に並び、一斉に頭を下げる。
黒、赤、金パ、シルバー、スキンヘッド、パーマあり/なし……頭の個性が際立つ瞬間。金パでロングの髪がバサーっと垂れ下がる様子はラーメンのようで楽しい。
続いて短めのアフタートークがあり、コンドルズ20周年記念ムックを会場で買うと、主催の近藤良平さんからサインがもらえるという告知が。今日初めて見たんだから「20周年へのファンとしての感慨」とか一切ないんだけど、サイン欲しさに買ってしまった。
近藤さんは気さくな感じで握手までしてくださり、「サラリーマンネオで見て、来たいと思ってました」と言ったら「あ、じゃあ初めてですね」と返してくれた。嬉しい。

ぐるっぽ(←諦め)

ムックを読むと、「ダンスで食っていくのは大変だから、メンバーには兼業・副業を推奨している」「練習しすぎないようにする」など、コンドルズ独自のポリシーが書かれていて興味深い。
各メンバーの別の仕事も、大学の先生、会社役員、ヨガマスター/予備校講師、実家の民宿を継いだ、書家、など多種多様。それぞれの生き方を尊重しつつ、まとまる時はまとまるって感じか。
好きなことをできる形で続ける人生のお手本を見せてもらった気分。予想に反して、勉強になります。

年明けにエネルギーをもらえた。見てよかった。
そして私も動きたくなる。今度ジムのエアロビクスにまた行こう……。