2016年12月31日土曜日

渡辺との運命的再会



ご無沙汰しております。生きてるよちゃんと。

ばたばたしているうちに、ミスiD2017が終わって2か月近く経ってしまった…!
見事グランプリに輝いた武田杏香さん、おめでとう(今更)。「私は死ぬところを誰にも見られたくない」って言葉、凄いね。17歳なのに。
E-girlsを辞めていなかったら、そういう美意識も、死について考えてしまうような部分も、グループのカラーに埋もれて見えなくなっていたかもしれないんだよなぁ。どうかそういう、得体の知れない美しさが生きる場所を見つけて、自分のやり方で輝いてほしいです。
グランプリに限らず、どの子にもそれぞれの歴史があって、物語があって、終わった後もサイトを見に行きたくなる。
楽しませてくれてありがとう。というか引き続き楽しませていただきます。

自分の話に戻ると、ここ2か月間は色々あった。土日はブログを書く代わりに、大学の同窓生新聞の記事やらなんやらをボランティアで書いたり、写真教室に行ったり、遂にガラケーからiPhoneにしたり、私なりに活動していた。

そんな中で、心底感動したことが。

その日、私は渋谷の本屋をぶらぶらしていた。確か眼科でコンタクトを買って、帰りに寄ったのだと思う。別に目当ての本があったわけではなく、アートブックや綺麗な雑貨が充実してるその店の空間に浸りたかった。
入口に近い棚から順番に見ていくと、『港の人』という小さな出版社の本を特集した棚に行き当たった。リトルプレスかぁ。『ミシマ社』ぐらいしか知らないけど、色々あるんだなぁ…。棚の本はどれも装丁のセンスがよく、こだわって作られている感じがする。気になったものを手に取ってめくったりしつつ眺めていたら、ある本のタイトルがバシッと私の視線を捉えた。

『渡辺のわたし』


あ、これ知ってる…。
読んだことはなかったが、十年ぐらい前に枡野浩一の短歌にハマっていた頃、この歌集の存在を知った。作者の斉藤斎藤の短歌が何かで紹介されていて、ユーモラスだけどドライな、無感動なのに妙な余韻のある作風が面白かったので、ちゃんと読んでみたいと思いつつそのままになっていた。
その歌集はネットでしか買えなかったのだが、私が存在を知った頃には発売から数年が経っており「まだ売ってんのかなぁ?」という不安から購買意欲がいまいち盛り上がらなった。しかもその後は就職活動なんかで心に余裕がなくなってしまい、短歌とか文芸書の類からどんどん遠ざかっていったのだった。

しかし、その渡辺が今、手に取れる姿で、私の前に現れた。
凄い。こんな風に、また出会い直せることってあるんだね。よかった…私に余裕がある時に来てくれて…渡辺、一緒に帰ろう。私は棚から渡辺を一冊掴み、レジに直行した。渡辺の表紙には「新装版」とあった。

帰宅後、渡辺を読み始める。
かつて見た記憶のある、ドライかつ脱力感溢れる作品が並ぶ。


お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする

「斉藤のほう只今外出しております」におけるほうのような斉藤

「斉藤さん」「斉藤君」とぼくを呼ぶ彼のこころの揺れをたのしむ

骨の髄まで冷やされてはつなつのマクドナルドのトレイを戻す

うなだれてないふりをする矢野さんはおそれいりますが性の対象


存在感のなさを主張する存在・斉藤の、謎の存在感。
主張するぞ! という意欲がめちゃくちゃ薄いのに、なんか心を掴まれる。
スーツをはだけながら「斉藤さんだぞ?」と言ってキメ顔するあの人とは対照的だ。

しかし読み進めてゆくと、彼の生い立ちに迫るような作品の中には、切なさや淋しさ、母への感謝といった「エモい」要素が見え隠れしていた。

立場上ひろわずにいられなかった骨のおもさを思い出せない

父さんはいわゆるひとつの母さんをいわゆるもう一つの母さんに

リトルリーグのエースのように振りかぶって外角高めに妻子を捨てる

行楽地に行った事実に気をゆるめひとりずんずん帰る父さん

とうさんがかさんをなぐる。なぐる。なぐる、とうさんはかあさんをなぐる

母さんがわたしのほうへなんなの、なんだったのと息をした朝

「本読めてしあわせもんやおまえのころ母さんいっつも畑に出てた」

俳句でもやってみたらと勧めたら母さんふとんを叩きに行った

母さんの神話にわりと忠実に生きるわたしは細部に宿る

渡辺のわたしは母に捧げますおめでとう、渡辺の母さん

蛍光灯がもったいつけて消えて点く きょうも誰かの喪が明けてゆく


 あまり具体的な説明はないものの、彼は、家庭を捨てた男性と後妻となった女性の間に生まれ、いわゆる複雑な家庭で育ったらしいことが分かる。↑の作品はあくまでも抜粋で、本当はもっと沢山歌があるので、気になる人は本編をチェック。
父親との心の隔たりや、恐らく働きづめで短歌や文芸への理解がない母を悲しく感じる気持ちがうっすら滲んでいて、彼のドライな表情の奥にある喜怒哀楽にちょっと驚く。

そして、歌人としての名前が「斉藤斎藤」なのに歌集の題が『渡辺のわたし』である謎の答えが、「渡辺のわたしは~」の一首だ。戸籍上の苗字は斉藤/斎藤だけど、「こころの姓」(性ではなく)は渡辺なんですよ、という意味に私は解釈した(違ってたら恐縮ですが…)。
斉藤の存在感のなさが生まれる背後にあったのは、「斉藤」と「渡辺」の狭間で揺れ動くアイデンティティだったのかもしれない。自分の居場所である家庭というものの不確かさ、あやふやさを日常的に感じていたことが、あの存在感のなさに繋がっているのではないか。

それ以外にも、恋愛に高揚する気持ちや、日々のささやかな気付き、心の揺れを特有のさらりとしたタッチで描写した作品が多数あった。

あなたあれ。あなたをつつむ光あれ。万有引力あれ。わたしあれ。

池尻のスターバックスのテラスにひとり・ひとりの小雨決行

笑顔から真顔へつづくだらだら坂に特に意味ないまばたきがある

キオスクの都こんぶのバーコードそういうものに君はなりなさい

しどけなく寝っころがって江戸川をながされてゆく春の自転車

「悪い人じゃあないんだけどね」「けどね」「ね」と笑うぼくらの足もとに床

ぼくはただあなたになりたいだけなのに二人並んで映画を見てる


渡辺の内面世界は思った以上に広く、深かった。
ここでは私の印象に残ったものをピックアップしてるだけで、これ以外にも素晴らしい作品が多々あるし、セットで読んで意味を成す連作もあるので、気になったら手に取ってみてください。是非に。
表紙の写真とか、新装版特有の要素も素敵。これからも折に触れ、本棚の渡辺を開こう。

でも、結局下の名前は教えてくれないままなんだよな…。


タカシ、って君が泣くから小一時間ぼくはタカシになってしまうよ


皆様、よいお年を。