2018年10月17日水曜日

KaoRi・アラーキー事件を巡って -女性の尊厳とアート愛の狭間で-


KaoRi・アラーキー事件

以前このブログに、荒木経惟=アラーキーの展覧会を見て感動した話を書いた。
ヌード写真で、被写体の女性の表情に頽廃感があって印象的だったという話。
グラビア写真の女性がよくする作られた笑いとは違って、男性への憎しみまで見え隠れするような表情にリアリティを感じた、と書いた。

しかしその後、アラーキーがよく撮影していた被写体の一人・KaoRiが、アラーキーから不当な扱いを受けたことを、自身のブログで公にした。
撮影同意書や作品集発売のタイミングでの同意書・内容確認がなかった、タイトルに「KaoRi」と入った写真集やDVDで収益が上がっても彼女には一円も支払われない、パフォーマンスや個展のオープニングなどの仕事で長時間拘束されてもギャラがなかった、予定では着衣の撮影だったのに現場で突然ヌードを強要された……など、一緒に仕事をするパートナーとして正当な扱いをされてこなかったことに意義を唱える内容だった。
最初は内輪の話し合いによる解決を試みたものの、アラーキーも事務所も全く取り合ってくれなかったという。
#MeToo運動の広がりを見て、同じような目に遭う女性を増やしてはいけないという思いから、KaoRiはブログに自分の経験を綴った。

KaoRiによる、経緯を説明した記事:
https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65

KaoRiインタビュー記事(BuzzFeed News)
https://www.buzzfeed.com/jp/akikokobayashi/kaori

2001年から2016年まで、彼女はずっとアラーキーのモデル(通称「ミューズ」)として、彼の芸術に貢献してきた。
しかし支払われるのは撮影後のギャラのみ(お小遣い程度)で、別の仕事をしないと生活できなかったという。

2008年に、Photo GRAPHICAという雑誌でアラーキー特集が組まれた際、彼女の胸が露出している写真が表紙になった。
しかも特集名は「KaoRi Sex Diary」。
何も聞かされていなかった彼女は、書店でその本が平積みになっているのを発見し、激しく動揺したという。
それ以来、彼女はストーカー被害に遭うようになったが、アラーキーも事務所も何もしてくれなかった。
彼女は心身共に蝕まれてゆき、2016年にアラーキーと決別した。

これまで、アラーキーのものだけでなくあらゆる写真作品のヌードモデルたちは、納得して撮られているものと思っていた。
しかし実際は、本人の意思に反して際どいポーズを取らされたり、事前の確認なしに写真集が刷られたりしていると知り、今まで私がアラーキーのヌード写真から得てきた感動や興奮が一気に色を失っていくのを感じた。
女性の尊厳を踏みにじる行為を経て生まれた作品たち。
それらに感動し、素晴らしいと感じてしまったことで、私自身もその行為を肯定することになっていたのかと思うと、ごめんなさいという気持ちすら芽生えてくる。
もう同じ作品を見ても昔と同じように感動できない。

アートの名のもとに女性の尊厳が脅かされるような状況は変えるべきだ。
アートファンが心から写真作品を楽しむためにも、写真家たちは被写体との合意の上で作品を世に出すよう徹底すべきだと思う。

ただ、一方で、「倫理観を守った創作活動」みたいな考え方に、違和感を覚えてしまう自分もいる。
この思いをどう消化すればいいのか分からなくて、今まで何も書けなかった。

アート愛と#MeTooのせめぎ合い

私がアート作品を見るために美術館に行くのは、作品を通して人間の本質に触れることに充実感を覚えるからだ。
アーティストの喜怒哀楽、世界への考察、美意識などが込められた作品と向き合うことは、日常生活における周囲との当たり障りのないやり取りからは決して生まれない、本音のコミュニケーションだと思う(双方向のやり取りではないけれども)。本音で接してくれているのか分からない生身の人間との対話より、自分の感情や世界観や人生観を再現するために何日も何か月も(場合によっては何年も)かけて創作活動をするアーティストたちの作品を真剣に見ている時の方が学びが多いと感じることすらある。

社会への違和感、暴力、性、死など、普段の生活の中では話題にしにくいテーマも、美術館という特別区では解禁される。自分が抱えている生き辛さを代弁してくれる作品に出会えたり、アーティストの本音に触れて自分のいる世界を再発見できたりすることが楽しくて、定期的に美術館に行きたくなる。
一人で行って、アーティストたちのメッセージをどう解釈するかじっくり考えるのは楽しい。友達と一緒に行くと、見終わって感想を語り合っているうちに普段より深い話に発展することがあり、そういうのも充実感があって好きだ。

(アラーキーによる女性のポートレート作品を良いと思ったのも、写真の中に、アラーキーの率直な欲望が写り込んでいるのを感じたからだ。ああ、良い女だなぁ、抱きてえ、そういう思いが迫ってくるようだった。
男性が社会生活を営む中で出しにくい欲求が、どこか頽廃感のある女性の毒々しくも美しいポートレートとして可視化されているのを見て、アラーキーという一男性の生々しい内面に触れたと感じた。その体験には確かに充実感があった。作品が撮られた背景を知っていたら違ったのだろうけど。)

私にとって、絵や写真やオブジェという比較的無害なものを通じて人間の本質を見せてくれるアートは、人生を豊かにしてくれる大切なものだ。
だから「倫理的な創作活動をすべき」みたいなスローガンが示された時、反射的に嫌だなぁと思ってしまう。そういう主張をする人にも必然があるのだと想像できても、自分がそれを言う側になりたくないという気持ちの方が強い。
アーティストが自分の内面を、とりわけ周囲と共有しにくい生き辛さや犯罪に繋がりかねない衝動を表現する空間がなくなったら、行き場を失くした感情をどうすればいいのか。作品から救いや気付きを得ていた人々はどうなるのか。
不健全なテーマも受け入れるアートの世界の大らかさが失われるのは絶対に嫌だと感じる。人間の本質を見つめ、それとどう向き合ってゆくのか考える空間を奪われたくないと本気で思う。

今回のKaoRiとアラーキーの件については、モデルが納得していない形での撮影・展示・書籍化およびプライベートでの様々な拘束が行われた点が問題だと思う。「作品が際どい」ことではなく、「モデルが納得していない」ことが。
今後は、撮影、展示、書籍化などのタイミングで、被写体を務めた人が同意しているかどうかを、その都度確認するような仕組みを作るべきだと感じる。展覧会や書籍のクレジットに被写体のサインが入った同意書を入れるような仕組みができれば、私たちも安心して作品を楽しめるし、気持ちよくお金を出せる。

しかし、こういう動きに乗じて、「際どい作品、不健全な作品は美術館から一掃すべきだ」「誰にもショックを与えない健全な作品しか展示してはならない」みたいな主張をする、極端な健全化論者が力を得てしまうとしたら非常に嫌だなと思う。世間一般の基準では不健全なものと見做される作品に救われる人もいるし、そういう人々の価値観を否定しないでほしい。

(この話で思い出した写真家・岡田敦。2008年に、リストカット経験者約50人の体を撮り下ろした「I am」という作品集を出している。被写体の女性たちにとっては、この撮影がありのままの自分と向き合うきっかけになったという。自傷行為という不健全なテーマを扱った作品が、誰かの救いになることもある。なお、「I am」は木村伊兵衛賞を受賞。)

「自傷する私」と向き合って 岡田敦さん
https://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200806270245.html

そして、アートについて真面目に考えたことのない人間が、セクハラの言い訳に「アート」という言葉を使うのも許せない。良い作品を届けようと頑張っているアーティストや関係者への侮辱だと思う。
また、過激なことをやればアートになると勘違いして、見た人に何を考えさせたいのかを固めないまま創作まがいの迷惑行為に走るような自称アーティストの存在も問題だと感じる(ちょっと古いけど「ドブスを守る会」など)。創作活動の原点が、問題意識やコミュニケーションへの欲求ではなく見栄や下世話な好奇心だと見て取れるアーティストに対しては、アートの意味から考え直してくれよと思う。

「ドブス」動画問題、首都大生2人を退学処分に 指導教員にも「厳正に対処」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/24/news073.html

こうして書いてみると、やはり私は中途半端な意見しか言えない。
「自由な表現空間より、モデル(女性)の人権を尊重しろ!」と言い切れない。アートの世界の自由な空気に救われてきたから。
恐らく私の中で、「自分は女である」という意識より、「自分はアートを愛する人間である」という意識の方が強いのだ。

あと、写真作品のモデルになるような人生を歩んでこなかったので、モデルが受けた不当な扱いや屈辱をリアルに想像できないというのもあるだろう。
「私は見た目の美しさでお金を得るような生き方してないしなー」という劣等感も手伝って、どこか他人事に捉えてしまっている気がする。
でも当事者の気持ちを理解しようがない人間に憶測でものを言われても、問題を訴えている当事者たちは迷惑に感じるかもしれないし、距離感が難しい。女性を正当に扱わないアーティストの作品に対してお金を落とさないよう気を付けようとは思うが、自分の中途半端さを思うと、この手の運動に積極的に加わるモチベーションが足りていないと感じる。

(もしや「女性失格」とか思われるのか。でもエマ・ワトソンは、フェミニズムの本質は女性の解放だと言っていた。「女なら女性の権利を求める運動に加わるべきだ」みたいなことを言う人がいたとすれば、それってフェミニストたちが定義する女らしさに私を押し込めようとする発言であり、私にとっては解放とは真逆の状況になってしまう…。)

ただ、こういう歯切れの悪い自分の現状を残しておくのも、それはそれで意味があるかもしれないという思いから、とりあえず記録として書いておくことにした。
#MeTooの議論が盛り上がる中、様々な見解に触れることで、この認識が変わる日も来るかもしれないが。

写真作品のモデル(特に女性)の権利・尊厳と、あらゆるテーマを許容するアートの大らかさが両立するような解決策が生まれてほしい。
どちらかを成り立たせるために、どちらかを犠牲にするのではなく。

2018年9月9日日曜日

note始めました



いやー、もう9月か。
今年があと4ヶ月弱。恐ろしい速さ。

さて、本題です。

先日、noteにアカウントを作りました。
このブログと同じ「水溶きかたくり子」名義です。

↓これ↓
https://note.mu/mztk_ktkr_ko/n/n46844bf87829

今後、ミスiD関連の話はすべて、そちらに書くことにします。

8月に、ミスiDとnoteの連携が発表されました。

ミスiD実行委員長の小林司さんが挙げていた連携の理由の一つが「ミスiDを語りたいたくさんの人たちのために」でした。
個人のツイッターやインスタやブログなど、ミスiDについて語る言葉が散らばっていて見えにくいのを可視化したい、という趣旨だそうです。

出てる子の言葉だけではなく、見てる側の言葉にも興味を持ってくれていることが分かったので、じゃあ私も思ったことを書こう!という気持ちで始めました。

ミスiDに楽しませてもらっている人間として、少しでも盛り上げられたらいいなーと思います。

なお、ミスiDと関係ない話は引き続きこっちに書きます。

これからはnoteの私も宜しくお願いします。

2018年8月29日水曜日

二人の上司



6月末、6年半ぐらい勤めた部署から、別の部署に異動した。

これまで、私は客先のメーカーに1人で出向していた。
うちの会社では、出向は決して珍しくない。ただ、基本的に3人とか10人のチーム単位で行くのが普通で、1人だけで行くというのはほとんど前例がなかった。

※ 私が勤めている会社の主な事業は印刷・出版編集なのだが、手掛けているのは機械や工業製品の取扱説明書やデパートの広告・チラシ・デジタルサイネージなどで、本屋に並ぶ本ではない。
こういう事業の性質上、客先に出向・常駐して、現場と自社の橋渡し役みたいな仕事をする社員も一定の数いる。

私が単独で行った背景には、私が行くことで先方との関係ができる→営業しやすくなる→受注増にしたい、という会社の意向があった。
(客先の別の部門からは仕事をもらっていたものの、私が入った部門とは取引がなかったので。)
結局、期待したほど受注が増えなかったので、私は撤退&別の場所に配属されることになった。

会社員生活の中で、6年半という長い期間を1つの空間で過ごしたことがなかったので、この部署での経験を振り返ると感慨深い。
特に印象深かった、配属当時の上司と次の上司について書いておこうと思う。
(書くにあたっては客観的なトーンを心掛け、ただの愚痴にならないように頑張る。)

私が配属された時の上司・S課長は技術者上がりだったので、説明書の制作やテクニカルライティングには疎かった。
形の上では部下を管理する立場にあっても、実際は業務分担、プロジェクトの進め方、その他もろもろの決定を部下に任せるというスタンスだった。
週一のミーティングで部下から進捗状況や協力会社とのやり取りなんかを報告されても、突っ込んだ質問をしたり、問題点を指摘することはほぼなく、悪く言えば部下の言いなりという感じだった。

カラオケが好きな人で、打ち上げや忘年会の二次会は絶対カラオケだった。
歌う曲はほぼサザン。キーの高いところに差し掛かると音程が怪しくなる。
激しく音のズレた「ま~だ~離れたくない~♪」みたいな歌と絶叫のあわいに、大手メーカー中間管理職の悲哀を感じた。しみじみ。

キャリアの長い社員さんにとっては、上司が自分たちのやり方に口を出してこないのは楽だっただろうなーと思う。
しかし私は、もっと管理職としてやるべきことをやってほしいと感じていた。

こだわりの強すぎるベテラン社員が、もう納期が迫ってるのに日本語の原稿に必要以上に修正を入れて英語・多言語版担当者(私たち)の仕事を増やし、翻訳会社に支払うコストを無駄に上げているのに、課長は何もしない。
ヒエラルキー的に上にいる社員の意向で、一部の社員に負担が集中するようなスケジュールが組まれてしまっても、「社員が決めたことだし」というスタンスで傍観する。

一番不満だったのは、定年再雇用のオッサン(年齢は上でも立場としてはパート)が現役社員の指示に従わなかったり、無断欠勤・遅刻をしたりするのに対して、厳しい態度を取らなかったことだ。

過去の説明書の英文を使い回せるところに「表現の改善」という名目で無駄な修正を大量に入れ、チェックの手間と翻訳のコストを増やす。
スペルミスが多い。
自分でやることを増やしておいて、無断欠勤・遅刻をする。「今日は休みます/遅れます」という電話連絡すら寄越さない。
実質パートのくせに、現役社員の指示に対して大声で反論する。
こういう、職場に対してプラスになることをほぼやっていない人間を注意するのが、上司の役目であるはずだ。

しかしS課長にはそれができなかった。
恐らく、立場は自分より下でも年齢が上のオッサンに意見して、衝突するのが嫌だったのだろう。
S課長がそういう態度だから、オッサンも調子に乗った。見ていて腹が立った。
(定年再雇用は「シルバー人材の有効活用」とか言われてるけど、上司が再雇用者をちゃんと監督できないと、現役社員の意識を下げることにしかならないと思う。)

結局S課長にとっては、上司として責任を全うすることより、波風立てずに定年を迎えることの方が大事なんだろうなと思った。

職場以外のところで知り合っていれば、嫌な人とは感じなかっただろう。
サザン熱唱を見るのは楽しいし。
しかし上司としては、尊敬できなかった。
この人は管理職の器じゃない、としか思えなかった。

だが、S課長の定年後に後任として来たB課長は、S課長とは全く違っていた。
技術者上がりである点はS課長と同じでも、「自分は課長としてこの部署を管理する責任がある」という意識がしっかりあった。

必然性を感じられない作業工程や残業申請に対しては「それは本当に必要なの?」と突っ込む。
週一のスケジュール確認ミーティングでも、日程や作業の割り振りに無理があったり、特定の人や制作会社の負担が大きすぎるなどの懸念があれば指摘する。

業務への理解を深めるため、取説や技術系の文章を書く人向けの「TC(テクニカルコミュニケーション)検定」を受験し、2級を取得。
S課長の「どうせ取説のことなんて分からないから…」という諦めとは対照的な、理解しようとする態度にはかなり感動した。
机の上には「伝える力」(池上彰)、「失敗学」などのビジネス書があり、仕事のヒントになる知識を日頃から収集していた。

私たちのような社員ではない出向者とも面談の場を設け、仕事や職場に対して感じていることを率直に話せる環境を作ってくれた(B課長にはカメラや舞台鑑賞などの趣味もあり、雑談も面白かった)。
しかも話を聞いて終わりではなく、問題を解消するために動いてくれた。

一番嬉しかったのは、定年再雇用のオッサンの態度の悪さに対し、ちゃんと注意してくれたことだ。
オッサンが現役社員と口論になった時に間に入り、現役社員の言うことを聞くように言ってくれて、本当に有り難かった。

今までS課長のもとで好きにやっていたベテラン社員にしてみれば、B課長の改革は疎ましかっただろう。
でも私は、B課長のお陰で、かなり仕事がやりやすくなった。

ベテランの人たちが何となく作ってきた見えないルールや、社員同士の中に何となくあるヒエラルキー(とそれに伴う業務分担の不均衡)が、S課長時代には正されなかった。
たとえ傍からは非効率でアンフェアに見えたとしても、「昔からずっとこのやり方です」と言っておけば、S課長はそれ以上追究しない。
でもB課長は「何故そのやり方を続けるべきなのか? 理由をちゃんと説明できないなら変える必要がある」と斬る。
それまで私は出向者として、筋が通ってないなーと思いつつ空気を読んで動かなければならないこともあったが、B課長体制になってからはこういうストレスがかなり減った。

今はもうこの部署を離れた私だが、B課長には本当に感謝している。
業務内容は同じでも、上司によって会社という空間はこんなにも変わるのだと悟った。

ただ、「S課長に比べてB課長が有能」と単純に言い切れない気もしている。
もしかしたらS課長の「空気を読んでみんなと仲良くやる」スキルが、昭和の上司には求められたのかもしれない。
調和よりも筋を通すことを優先するB課長のような人は、一昔前だったら「分かってない上司」と思われてしまった可能性もある。

不景気が20年以上続いて会社がコストの管理に厳しくなる中で、管理職は大らかではいられなくなっているように思う。
無駄な備品を使うなとか、不要な休出&残業はやめろといったような指導を、昔よりも徹底してやらないといけなくなっている印象(バブル入社の社員さんの思い出話を聞いてそう感じた)。
当たり前といえば当たり前だけど、ずっと好景気が続くという幻想の中では、そういう杓子定規さが消えてしまうものらしい。

そして、働き方の多様化も関係がありそうだ。

昭和の職場では恐らく、新卒採用で入った正社員がマジョリティだった(少なくとも私の出向先の大手メーカーのようなところでは)。
新卒採用の時に会社が決めた基準に合う人間しか入ってこない職場であれば、社員が同じ価値観を共有しているという前提のもとに、色々な決定を場の空気に任せたり、上の人間の意向を周囲が上手く察知して計画を進めるみたいなことが可能だったのかなと思う(もちろん納得してない人もいただろうけど)。

しかし立場やバックグラウンドが違う人間(中途採用、派遣社員、育児や介護のために時短で働く社員、定年再雇用…)が入り乱れている今の職場では、管理職は、全員が同じ価値観を共有していないことを前提にして動かなければならない。
中途で入った人や派遣社員などに「見えないルールを察してくれ」と言っても限界がある。
管理職がそれを見える化しなければ、そういう人は動かせない。

新卒で入った正社員しかいない空間でなら「あの人は定年再雇用で権限はないけど、キャリアは長いから厳しいことは言わないであげよう」みたいな感覚が共有できるのかもしれないけど、今の職場で通用するものではないと思う。

こういう変化に対して「昔は大らかでよかった」という声も聞かれたし、「B課長と自分は合わない」と言って異動してしまった人もいる。
でも私は、断固B課長を推すし、S課長のような人が良しとされる職場は嫌だ。
衝突を避けて空気を読み合うより、関係者が自分の意見をオープンに交換してちゃんと衝突できる場がある方が絶対健全だと思う。
嗚呼、昭和で会社員やらずに済んでよかった。

2018年5月4日金曜日

ZINE

ZINE、編集作業終了。

火曜にデータが完成し、ネット印刷の発注まで終わらせた。

翌日になって「印刷用紙が分厚すぎたのでは」という気持ちになってきた。
本来なら「テスト版を1部だけ発注→チェック→本番印刷」という手順を踏むべきなんですけど、時間なかった…私のtime managementが至らんかった…
まあでも、それによって広告主に迷惑かかったりしないのがZINEの良いところ。次頑張ろ…

なんか「ZINE作ってます」って言うとクリエイティヴ&オサレな感じするけど、私がやってることを端的に言ってしまうと

「雑誌ごっこ」

だ…

横文字って格好つけられて便利よね。いつもありがとうねっっ(謎)

どんなZINEかというと

表紙

これだけ見るとまともそうなんですが
目次

ユルい。
最後にばたばた作ったこともあり、素人感がMAX。
(日本語の特集名はモーリス・センダックの代表作「かいじゅうたちのいるところ」を意識。)

でもこの狐の、キャラとしてデフォルメされつつも「一筋縄じゃいかないぜ、俺」みたいな表情が非常に好きなので、一人でも沢山の人にそれが伝わってほしい…
新宿の花園神社で買えます。中に折り畳んだおみくじが入ってる。
これは巻き物をくわえてる仕様だけど、確かもう一種類あった(デザインの詳細は忘れた)。

ZINEの発売は5/19(土)。
MOUNT tokyo(実店舗&Web)で、半年間販売される予定。

●MOUNT tokyo実店舗(最寄り駅:東急東横線 都立大学駅)



なお、発売日 5/19(土)&翌 20(日)は、MOUNT tokyoで「MOUNT ZINE 15」というイベントが開催される(https://zine.mount.co.jp/mz15/)。

入場料500円でドリンクと300円分のZINEチケットがもらえて、ドリンクを飲みながらZINEを立ち読み&購入できるというイベント。
通常営業の時に、買うか分からない状態で人のいない店に入るのはハードル高い…という人は、このイベントの時にどさくさに紛れて立ち読みできるのでいいかも◎
(私は行くかどうかまだ決めてません…店が狭いので、出品者が全員行ったら大変なことになるんすよ。コミケみたいに机出して売るスタイルではないので。)

ただ、19日の17時から「レセプション」という時間帯が設けられていて、この時間だと人が多いので立ち読みしにくい。
(レセプションは、軽い立食パーティーという感じ。クリエイター・読者・出版関係者なんかが交流しやすい時間として設けられているらしく、お店が軽食を出してくれる。)
単にZINEを吟味して買いたいだけの人は、この時間を避けた方がゆっくり見られていいと思う。
逆に、ZINEを出してるクリエイターと仕事の話をしたいとか、コラボを持ちかけたいとかいう意図がある人は、この時間がベスト(※相手のSNSに「レセプション行く」というコメントがあればの話ね)。

そして補足情報。
店からちょっと歩くけど、美味しいジェラートが食べられるところが
↓ ↓ ↓
PostoFelice(ポストフェリーチェ)

1階がジェラートスタンド、2階がレストラン。
チョコレートとミルクのダブルを頼んで、清涼感を期待して食べたら、濃厚な味に驚いた。
特にチョコレートは、チョコの粘り気が残ってて「本物使ってるぜ」って感じ。
ミルク味も、チョコに比べれば食感は柔らかめだけどミルクがしっかり主張してた。

私はジェラートしか食べなかったですが、奥に窯があって、そこでピザを焼いてる。
絶対美味しいと思う…いつか食べてみたい…

2018年2月19日月曜日

京都脱力紀行



今月の上旬、京都に行ってきた。

金曜から有休をとって京都入り。
新幹線で隣の席にスーツのビジネスマンが座ったので、ちょっと優越感~

今回はテキストよりも写真中心で振り返ってみる。
【新京極~錦市場界隈】


江戸時代のテイストが残る薬屋。かっこいい店構え。


交番の看板は明治~大正時代のものが現役。馬に乗った警官、素敵。


蛸薬師(永福寺)。アーケードの中にふっと寺がある光景、トリップ感が高まる。

【叡山電車】

鴨川の東側を走る叡山電車で、街からちょっと外れた北東のエリアに向かう。


沿線風景が、街中よりもローカル。

目的地は、一乗寺駅から徒歩数分の、恵文社一乗寺店。


本好きにとってはもはや聖地と言っていい店。
1975年の創業以来、独自の本のセレクトや個性的な店構えで営業を続けてきた。
90年代に他店に先駆けて雑貨も置くようになり(今では珍しくないが)、一気に知名度が上がったとのこと。

店内にはギャラリーやイベントスペースなどもあり、単に本を買う場所というより、人生を豊かにするヒントを探す場という感じがした。
木をメインにした床や本棚が、経てきた時間の重みを感じさせつつも温かい雰囲気。「次元の高いヴィレッジヴァンガード」みたいな。

(三条にある本屋・ホホホ座にも行ったんだけど、その時は一眼レフを持参しておらず、スマホで撮るのも忘れた…そっちは隠れ家的なテイストがあって、これまたいいお店だった。
古書も扱っていて、その中にちょうど読みたかったやつがあったので迷わず購入!
軽食も出してるので、次に行った時は食べたい。カレーを。)

そして、一乗寺駅から徒歩数秒の場所には、まさかのラーメン二郎が!!


同じ電車に乗っていた、大学生らしき男子二人連れが入っていった。
京都人は味覚が繊細で、がっつり味のものは口に合わないんだろうなーとか思ってしまうけど、育ち盛りの男の子は京都人でもこってりしたラーメン食べたいのか……まぁそりゃそうだよな……一つ学んだよ。

【古川町商店街】

三条にある、昭和の香りが残るアーケードへ。



目的地は、知ってる人は知ってる裏名所、「むらを東山堂」……。
市井のアーティストを発掘する天才・都築響一の本に紹介されていたので、足を運んだ。
(なお、都築響一は、ミスiD2018グランプリ・ろるらりちゃんにもインスピレーションを与えている偉大な存在。)
店の手前には、下の写真のような素朴なお菓子が並んでいる。
ここまで手作りテイストのお菓子が買える店って、かえって珍しいかも。

しかし、この店の真骨頂は、店の奥の棚に置いてある、衝撃のおまけカード付きの大人用おかき!!
これに関してあまり多くは語らないが、写真を見てお察し下さい。

内容自体は下ネタでありつつ、ぎりぎり下品にならない絶妙な絵。
これだって大事な文化だよね、という矜持を感じる。
商店街を南に下ってゆけば花街・祇園だからなー。そういうことかなー。
京都の裏の顔を知ってしまったよ。無論、おかき本体も美味しい。

【おまけ・奈良】

足を延ばして奈良にも行った。


人と鹿が共存。平和な光景。


空腹時に、絶妙なタイミングで姿を現した茶店。



わらび餅、抹茶。ここにも鹿はいる。

もろもろした口どけと、きな粉&黒蜜の素朴な甘みに和む。
歩き回ったせいで早くなってしまった血流をスローにしてもらえた。

※その頃、東京ではミスiDカフェが行われていたのだが、告知が出た時にはもう新幹線の切符取ってたので、残念ながら行けず。

そんな感じで、神社仏閣、文化的スポット、珍スポット、色々回ってきました。
行っても行ってもまた行きたい場所が出てくるぜ、京都。ま、どうせまた行くし。
今度は北上して貴船神社まで行けたらいいな。本屋ももっと開拓したい。
マンガミュージアムも気になるし、龍安寺の枯山水もまた見たいし、よく考えたら奈良の餅飯殿商店街の古道具屋とかもゆっくり見たいんだった……次に目指す場所を挙げればきりがない。

そして本屋を2件はしごしたため、積読が4冊増えてしまうことに!
本棚のキャパへの配慮があっちで完全に飛んだ……。
でもいいセレクトをしている書店への恩返しでもあるからねぇ。買うって大事だよねぇ。客としてはねぇ。

今よりも賢くなって、またこの地を訪れるのだ、水溶きかたくり子よ。


2018年1月21日日曜日

千客万来


2018年、始まりましたね~
ブログで「あけましておめでとう」を言うタイミングを完全に逸した……

『センター試験 英語対策 featuring ミスiD2018』、ご好評をいただいており、ありがとうございます。
このブログにこんなに人来たことないよ(1/21現在で600人超)。インフルエンサーえもゆすに感謝。


ミスiD選考委員会長・小林司さんが固定してくださっている。嬉しい。

そして、ミスiD2018大森靖子賞・睡ちゃん、


がっつり紹介していただき光栄です~チェコからありがとうね~
(英語だとチェコはthe Czech Republicだけど、Chezh→「チェコ」って読めっていうのがまだ納得できてない。)

作っている時は問題文が浮かびすぎて「私どんだけミスiD出てる子のSNS見てたんだ⁉」と自分に引いた……
一見無駄に見えた時間が意外な形で役立ったっぽくて、FANTASTIC💖

ツイッターで「天才」とか言ってくれた人までいて嬉しかったよー。
社会人になるとほとんどのスキルは「できて当たり前」という見方をされるので、褒められる機会が激減するものなんだぜ、若人よ(T-T)
このささやかなバズりを胸に、今年も地味に頑張る。

問題をアップしたことをえもゆすにDMした直後は、彼女のツイッターに私への嫌味らしき投稿が上がったりしていたwww
でも結局拡散してくれたということは、心境の変化があったんですかね。
司さんの言う通り、一応原動力は愛なんですよー納得いく環境で学んでほしいという願い。

最近は動画作りなどの新境地を切り拓いてる様子ですが、動画再生のパスワードが「escape」なのは、受験から逃げてる自覚の現れ……⁉
「入学したらやりたいこと」を意識することでモチベーションを上げる試みだといいなー。

明日は東京雪か。通勤、緊張。


※写真は都内の豪徳寺で撮影。胸焼けする量の招き猫に会えるよ! もはや可愛くない量の!

2017年12月12日火曜日

センター試験 英語対策 featuring ミスiD2018

この度、勝手にテスト問題を作ってみました。

※一問一答&会話の空所補充のみ(計21題)。さすがに全部はキツいので。

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【センター試験 英語対策 featuring ミスiD2018】

\全問題で『ミスiD2018』ファイナリスト&関係者名の使用に成功/

https://drive.google.com/open?id=1Se1oUdBlrW1kOoUJ6lyeU4susV9SQvdH

<例題>  "Uyu" in kanji (     ) "playing rabbit".
       ① leaves     ② makes     ③ creates     ④means

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問題文全てに、ミスiD2018ファイナリストおよびウォッチャーにはお馴染みの人達が登場。
制限時間は特に決めてないので、あんまり肩肘張らずにやってみてね❤

ぴんと来た人もいるかもしれませんが、今年大ヒットした『うんこ漢字ドリル』と原理は同じ!
問題文が面白い→モチベーションが上がる、というやつですね。

TomとかBobとかElizabethより、UyuとかYaneとかRorurariの方がとっつきやすいはず。
(引き立て役として出てくるTsukasaにも注目。)
私が把握している受験生ファイナリスト(Maya/Sayaka/Kanano/Yusura)は全員入れました。

馴染みのある人の話 in English を眺めることで、「英語なんて分かんない、見たくもない」という思考回路が多少変わるといいなーという狙いもありつつ、作ってる私が楽しいだけかも。

解答・解説ページは1/4ぐらい雑談です。やる気のない人間が作った参考書だと思って読んでみてね。

一応、出題者=私の英語力(TOEICスコア)は


このぐらいです。(英検は準1級ですが、合格証書が実家なので写真が撮れない orz)
もちろん上には上がいるのは理解してますが、英語の勉強にはそれなりに時間を割いてきた人間です(帰国子女でもハーフでもない)。
あと、ミスiD観察も真面目にやってきたよ(こうして書いてみると気持ち悪い)。

※ただ、中学~高校時代の自分を振り返ってみると、勉強が好きということ以上に「自分から文系科目の成績を取ったら何も残らないのでは」という焦燥感から勉強していた気もする。
上記のTOEICスコアも、10代から始まる「自分の価値をどう証明するのか」という足掻きの産物だと考えると、少しほろ苦い気持ちになる。結果として良かったことは良かったんだけど。

そして、英語のテストで思うような結果が出せない人に一つ言いたいこと。

\\問題文の中に知らない単語が出てきても焦らないで//

全部の単語の意味を知らなくても、出題のポイントになる部分さえ理解できれば、解けます。

「全ての言葉の辞書的意味を理解しないと駄目だ」みたいな壮大なポリシーを掲げてる人なんかは特に、一つ分からない単語が登場しただけで「終わった」「死にたい」とか思ってそうだけど、実際は飛ばして読んでも何とかなったりするので、落ち着こう。

それでは、GOOD LUCK😉