2018年10月17日水曜日

KaoRi・アラーキー事件を巡って -女性の尊厳とアート愛の狭間で-


KaoRi・アラーキー事件

以前このブログに、荒木経惟=アラーキーの展覧会を見て感動した話を書いた。
ヌード写真で、被写体の女性の表情に頽廃感があって印象的だったという話。
グラビア写真の女性がよくする作られた笑いとは違って、男性への憎しみまで見え隠れするような表情にリアリティを感じた、と書いた。

しかしその後、アラーキーがよく撮影していた被写体の一人・KaoRiが、アラーキーから不当な扱いを受けたことを、自身のブログで公にした。
撮影同意書や作品集発売のタイミングでの同意書・内容確認がなかった、タイトルに「KaoRi」と入った写真集やDVDで収益が上がっても彼女には一円も支払われない、パフォーマンスや個展のオープニングなどの仕事で長時間拘束されてもギャラがなかった、予定では着衣の撮影だったのに現場で突然ヌードを強要された……など、一緒に仕事をするパートナーとして正当な扱いをされてこなかったことに意義を唱える内容だった。
最初は内輪の話し合いによる解決を試みたものの、アラーキーも事務所も全く取り合ってくれなかったという。
#MeToo運動の広がりを見て、同じような目に遭う女性を増やしてはいけないという思いから、KaoRiはブログに自分の経験を綴った。

KaoRiによる、経緯を説明した記事:
https://note.mu/kaori_la_danse/n/nb0b7c2a59b65

KaoRiインタビュー記事(BuzzFeed News)
https://www.buzzfeed.com/jp/akikokobayashi/kaori

2001年から2016年まで、彼女はずっとアラーキーのモデル(通称「ミューズ」)として、彼の芸術に貢献してきた。
しかし支払われるのは撮影後のギャラのみ(お小遣い程度)で、別の仕事をしないと生活できなかったという。

2008年に、Photo GRAPHICAという雑誌でアラーキー特集が組まれた際、彼女の胸が露出している写真が表紙になった。
しかも特集名は「KaoRi Sex Diary」。
何も聞かされていなかった彼女は、書店でその本が平積みになっているのを発見し、激しく動揺したという。
それ以来、彼女はストーカー被害に遭うようになったが、アラーキーも事務所も何もしてくれなかった。
彼女は心身共に蝕まれてゆき、2016年にアラーキーと決別した。

これまで、アラーキーのものだけでなくあらゆる写真作品のヌードモデルたちは、納得して撮られているものと思っていた。
しかし実際は、本人の意思に反して際どいポーズを取らされたり、事前の確認なしに写真集が刷られたりしていると知り、今まで私がアラーキーのヌード写真から得てきた感動や興奮が一気に色を失っていくのを感じた。
女性の尊厳を踏みにじる行為を経て生まれた作品たち。
それらに感動し、素晴らしいと感じてしまったことで、私自身もその行為を肯定することになっていたのかと思うと、ごめんなさいという気持ちすら芽生えてくる。
もう同じ作品を見ても昔と同じように感動できない。

アートの名のもとに女性の尊厳が脅かされるような状況は変えるべきだ。
アートファンが心から写真作品を楽しむためにも、写真家たちは被写体との合意の上で作品を世に出すよう徹底すべきだと思う。

ただ、一方で、「倫理観を守った創作活動」みたいな考え方に、違和感を覚えてしまう自分もいる。
この思いをどう消化すればいいのか分からなくて、今まで何も書けなかった。

アート愛と#MeTooのせめぎ合い

私がアート作品を見るために美術館に行くのは、作品を通して人間の本質に触れることに充実感を覚えるからだ。
アーティストの喜怒哀楽、世界への考察、美意識などが込められた作品と向き合うことは、日常生活における周囲との当たり障りのないやり取りからは決して生まれない、本音のコミュニケーションだと思う(双方向のやり取りではないけれども)。本音で接してくれているのか分からない生身の人間との対話より、自分の感情や世界観や人生観を再現するために何日も何か月も(場合によっては何年も)かけて創作活動をするアーティストたちの作品を真剣に見ている時の方が学びが多いと感じることすらある。

社会への違和感、暴力、性、死など、普段の生活の中では話題にしにくいテーマも、美術館という特別区では解禁される。自分が抱えている生き辛さを代弁してくれる作品に出会えたり、アーティストの本音に触れて自分のいる世界を再発見できたりすることが楽しくて、定期的に美術館に行きたくなる。
一人で行って、アーティストたちのメッセージをどう解釈するかじっくり考えるのは楽しい。友達と一緒に行くと、見終わって感想を語り合っているうちに普段より深い話に発展することがあり、そういうのも充実感があって好きだ。

(アラーキーによる女性のポートレート作品を良いと思ったのも、写真の中に、アラーキーの率直な欲望が写り込んでいるのを感じたからだ。ああ、良い女だなぁ、抱きてえ、そういう思いが迫ってくるようだった。
男性が社会生活を営む中で出しにくい欲求が、どこか頽廃感のある女性の毒々しくも美しいポートレートとして可視化されているのを見て、アラーキーという一男性の生々しい内面に触れたと感じた。その体験には確かに充実感があった。作品が撮られた背景を知っていたら違ったのだろうけど。)

私にとって、絵や写真やオブジェという比較的無害なものを通じて人間の本質を見せてくれるアートは、人生を豊かにしてくれる大切なものだ。
だから「倫理的な創作活動をすべき」みたいなスローガンが示された時、反射的に嫌だなぁと思ってしまう。そういう主張をする人にも必然があるのだと想像できても、自分がそれを言う側になりたくないという気持ちの方が強い。
アーティストが自分の内面を、とりわけ周囲と共有しにくい生き辛さや犯罪に繋がりかねない衝動を表現する空間がなくなったら、行き場を失くした感情をどうすればいいのか。作品から救いや気付きを得ていた人々はどうなるのか。
不健全なテーマも受け入れるアートの世界の大らかさが失われるのは絶対に嫌だと感じる。人間の本質を見つめ、それとどう向き合ってゆくのか考える空間を奪われたくないと本気で思う。

今回のKaoRiとアラーキーの件については、モデルが納得していない形での撮影・展示・書籍化およびプライベートでの様々な拘束が行われた点が問題だと思う。「作品が際どい」ことではなく、「モデルが納得していない」ことが。
今後は、撮影、展示、書籍化などのタイミングで、被写体を務めた人が同意しているかどうかを、その都度確認するような仕組みを作るべきだと感じる。展覧会や書籍のクレジットに被写体のサインが入った同意書を入れるような仕組みができれば、私たちも安心して作品を楽しめるし、気持ちよくお金を出せる。

しかし、こういう動きに乗じて、「際どい作品、不健全な作品は美術館から一掃すべきだ」「誰にもショックを与えない健全な作品しか展示してはならない」みたいな主張をする、極端な健全化論者が力を得てしまうとしたら非常に嫌だなと思う。世間一般の基準では不健全なものと見做される作品に救われる人もいるし、そういう人々の価値観を否定しないでほしい。

(この話で思い出した写真家・岡田敦。2008年に、リストカット経験者約50人の体を撮り下ろした「I am」という作品集を出している。被写体の女性たちにとっては、この撮影がありのままの自分と向き合うきっかけになったという。自傷行為という不健全なテーマを扱った作品が、誰かの救いになることもある。なお、「I am」は木村伊兵衛賞を受賞。)

「自傷する私」と向き合って 岡田敦さん
https://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200806270245.html

そして、アートについて真面目に考えたことのない人間が、セクハラの言い訳に「アート」という言葉を使うのも許せない。良い作品を届けようと頑張っているアーティストや関係者への侮辱だと思う。
また、過激なことをやればアートになると勘違いして、見た人に何を考えさせたいのかを固めないまま創作まがいの迷惑行為に走るような自称アーティストの存在も問題だと感じる(ちょっと古いけど「ドブスを守る会」など)。創作活動の原点が、問題意識やコミュニケーションへの欲求ではなく見栄や下世話な好奇心だと見て取れるアーティストに対しては、アートの意味から考え直してくれよと思う。

「ドブス」動画問題、首都大生2人を退学処分に 指導教員にも「厳正に対処」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1006/24/news073.html

こうして書いてみると、やはり私は中途半端な意見しか言えない。
「自由な表現空間より、モデル(女性)の人権を尊重しろ!」と言い切れない。アートの世界の自由な空気に救われてきたから。
恐らく私の中で、「自分は女である」という意識より、「自分はアートを愛する人間である」という意識の方が強いのだ。

あと、写真作品のモデルになるような人生を歩んでこなかったので、モデルが受けた不当な扱いや屈辱をリアルに想像できないというのもあるだろう。
「私は見た目の美しさでお金を得るような生き方してないしなー」という劣等感も手伝って、どこか他人事に捉えてしまっている気がする。
でも当事者の気持ちを理解しようがない人間に憶測でものを言われても、問題を訴えている当事者たちは迷惑に感じるかもしれないし、距離感が難しい。女性を正当に扱わないアーティストの作品に対してお金を落とさないよう気を付けようとは思うが、自分の中途半端さを思うと、この手の運動に積極的に加わるモチベーションが足りていないと感じる。

(もしや「女性失格」とか思われるのか。でもエマ・ワトソンは、フェミニズムの本質は女性の解放だと言っていた。「女なら女性の権利を求める運動に加わるべきだ」みたいなことを言う人がいたとすれば、それってフェミニストたちが定義する女らしさに私を押し込めようとする発言であり、私にとっては解放とは真逆の状況になってしまう…。)

ただ、こういう歯切れの悪い自分の現状を残しておくのも、それはそれで意味があるかもしれないという思いから、とりあえず記録として書いておくことにした。
#MeTooの議論が盛り上がる中、様々な見解に触れることで、この認識が変わる日も来るかもしれないが。

写真作品のモデル(特に女性)の権利・尊厳と、あらゆるテーマを許容するアートの大らかさが両立するような解決策が生まれてほしい。
どちらかを成り立たせるために、どちらかを犠牲にするのではなく。