2017年11月3日金曜日

異形の愛―仇になる親の愛と、伝わらない無条件の愛



会社員になる前、翻訳の勉強用に読んでいた『TIME』のブックレビュー記事で、"Geek Love"という本が紹介されていた。タイトルに惹かれ(「オタクの恋」という意味に解釈)、日本語訳=『異形の愛』を図書館で探して読み始めたのだが、かなり長い小説で、少ししか読まないうちに返却期限が来てしまった。その本は市区町村内の他の図書館から取り寄せたものだったので、また取り寄せる手続きをするのは面倒だなー時間ができたらやりたいなーと思いつつ、それきりになっていた。

しかし先月、『異形の愛』新訳版が本屋に並んでいるのを発見(訳者は旧版と同じ柳下毅一郎)。
その時は買わずに帰ったが、家に帰ってからもずっと気になり続け、新しい訳の方が読みやすそうだし、ちゃんと読みたいし、買おうという結論に達した。
税込 ¥3,456。決して安くない。でもこのボリュームの作品を訳す大変さは想像できるので、柳下さん、河出書房新社の皆様、お納めください。

タイトルで「異形」と訳されている"Geek"という言葉にはいくつか意味がある。「奇人、変人」という意味のほかに、最近では「オタク」の蔑称としても使われている。(用例を見た印象だと、プログラミングマニアやネット廃人など、PCばかり見て社会性がない人を馬鹿にするニュアンスがある。)
そして、さらにマニアックな意味も。「芸人が生きている鶏の首を噛み切る、サーカスの芸の一種」。巻末の解説によると、日本の見世物小屋にある「ヘビ女」(女性が蛇に噛みついて生き血をすする芸)の欧米版だそう。
物語の冒頭で、移動サーカス団一家の娘として生まれた主人公が両親から聞かされる馴れ初めエピソードの中に、若かりし日の母が披露したギーク芸が登場する。生きた鶏の首を齧り、勢いよく飛び散る血しぶきに歓声が上がるサーカス小屋という空間は、世間の秩序や価値観が通用しない異界。"Geek"は、サーカスという一種のパラレルワールドで展開される物語全体を象徴するキーワードになっている。

この小説は、設定が分かった時点で、「それ倫理的に大丈夫なんですか⁉」という気持ちになる。
主人公はアメリカの移動サーカス団の三女として生まれたオリー(正式には「オリンピア」)。彼女には兄、双子の姉、弟がいるのだが、本人も含め全員に何かしらの身体障害ないし特殊な性質がある。
兄は腕と足がなく、肩と腿の付け根から直接指が生えている。双子の姉は胴の部分で体が繋がっていて、離れられない。オリ―はアルビノで、背中にコブがある。一番下の弟は、兄や姉のような目立った身体的特徴はないが、物を触らずに動かせるサイキック…。
何の障害もない両親から、このようなバラエティに富んだ子供たちが生まれたのには理由がある。子供に障害が出るよう、父親は薬物や殺虫剤を入手し、母親はそれをわざと妊娠中に摂取していたのだ。(サイキックの子が生まれたことだけは完全に想定外だけど。)
両親は、決して悪意からこういうことをやっているのではない。根底にあるのは、サーカスの世界では強みとなる特殊な見た目を子供に授け、食べるのに困らないようにしよう、という愛だった。
母は言う。「子供へのプレゼントにこれ以上のものがある? 自分自身だってだけでお金を稼げる能力以上のものが?」

しかし物語が進むにつれて、この愛が子供たちの人生に影を落とし始める。
青年期を迎え、外の世界の人間が自分たちに向ける蔑みや嫌悪感に触れて、自らの特異な体がもてはやされるのはサーカスという世界の中だけだと気付く子供たち。その認識はやがて「サーカスで客を集められなければ自分は価値のない人間なんだ」というプレッシャーに姿を変え、それぞれの人生を蝕んでゆく。

そのプレッシャーに最も苦しめられるのは、長男のアーティー(正式には「アルチューロ」)だ。美しい双子の妹のピアノ連弾ショーにいつも売り上げで負け、サイキックの弟のような凄い能力もないアーティーは、激しい劣等感を抱く。
自分の芸がなく、主に呼び込みや雑用を担うオリ―はアーティーに献身的に尽くすが、アーティーは日々の不満をオリ―にぶつけ「お前は稼げない」と暴言を吐く。

やがてアーティーは、神から遣わされたメッセンジャーというキャラクターを確立し、観客に助言を与えるショーをあみ出す。ショーは大当たりし、アーティーは遂に売り上げで双子を抜く。
アーティーはメディアにも取り上げられ、アーティーの熱狂的なファンがサーカスに詰めかけるようになる。アーティーと仕事をしたいと、サーカスのメンバーに加わる者も現れた。しかし、ファンやイエスマンを従えたアーティーの発言力が増すと共に、一家の人間関係に綻びが生じ始め、サーカスは崩壊へ向かってゆくのだった…。
(ネタバレするのもアレなんで、あらすじ紹介はここまで。気になる方は読んでみて下さい。)

読み始めた時点では、サーカスという異常な世界の人間模様を垣間見ている=他人事として見ている感覚だった。
しかし読み終えてみると、この作品が扱っているテーマは、案外普遍的なものだと気付く。

まず、親が子供のためを思ってやることが、本当に子どものためになっているのか、というテーマ。
この作品で主人公の親がしたことを現代の日本でやれば、即・犯罪者扱いされるだろうし、「虐待」「人権侵害」などの批判は免れないだろう。でも、親がよかれと思って子供の人生に働きかけること自体は、ごく普通に行われている。珍しい名前をつける。習い事に行かせる。似合うと判断した服を買って着せる。英才教育をする。タレント養成所に入れる。オーガニック食品以外は食べさせない。勉強の妨げになるゲームや漫画を買ってやらない。等々。
どの場合も、親に悪気はない。しかし時として、それが子供の可能性を狭めてしまうことがある。

オリ―をはじめ、サーカスの世界で生きることを前提に「デザイン」された子供たちにとって、外の世界で生きる選択をすることは難しい。障害があることは外の世界(恐らく第二次世界大戦前後のアメリカ)では単なるハンデとしか見做されないし、学校に行かず家業を手伝って生きてきた彼らは、外の世界の人々と同じ知識を共有していないのだ。
この話は、キッズタレントや子役として活躍していた人が大人になって行き場を失くすケースと重なるように思う。芸能界で生きてゆく前提で「デザイン」されてしまったことで、あまり学校に行かず仕事やレッスンに明け暮れる生活をした結果、潰しが利かなくなる、みたいな。
親は子供に特別な体験をさせることに意味を感じてそういう選択をしたのに、それが仇になってしまう。程度の差こそあれ、こういう話は沢山ある気がする。
親の子供への愛情が行動として現れる時、それは必然的に価値観の押し付けとセットになってしまい、多かれ少なかれ歪んだものになるのかもしれない。

もう一つは、無条件の愛を信じられるか? というテーマ。
自分より客を集められる双子の妹にコンプレックスを抱くアーティーが、自分を無条件に慕っているオリ―の気持ちを素直に受け取れないくだりで、特にこういうことを考えさせられた。
親は、どの子も同じように大切だと言う。でも現実には、より売り上げに貢献した子が褒められる。サーカスへの貢献度が低い自分は、双子と同じだけの愛を得る資格がない――アーティーのそういう思考回路が、オリ―や両親やサイキックの弟が彼に大して持っている無条件の愛情を見えなくさせてしまう。「調子のいいことばかり言いやがって、どうせ心の中ではバカにしてんだろ」という風にしか思えなくなってしまう。こういう状況に陥ることは、恐らく誰にでもある。

というか、10代~20代前半ぐらいまでは、私も割とそういう感覚で生きていた。「この世のすべては交換条件で与えられるんだ」「何かを得たいなら何かを差し出さなくてはならない」「人に何も与えられない人間が何も貰えないのは仕方ないこと」という論理が、自分の中で支配的だったように思う。
でも成長する中で、もう少し感覚が大雑把になってきた。その時点でもらったものと同レベルのものを相手に返せなくても、数ヵ月後、数年後にそれができるくらい成長していれば相手も納得してくれる(場合によってはむしろ喜んでくれる)ことに気付く。そして自分が逆の立場でもそう思えるようになっている。
あと、「等価のものを交換できてるか」をあまり綿密に考えなくなった。友達が家に来ることになって、部屋を片付けている時は面倒な気持ちになっていたが、いざ相手が来て帰ってみると、一緒に楽しい時間が過ごせてよかったなーという満足感だけが残る。昔だったら「掃除にかかった労力と楽しさを比べたら、プラスかマイナスか」みたいなことを考える感覚があったけど(だから人を呼ぶことはほぼなかった)、今は楽しかったんだからもういいよねーという感じ。


こういう変化が起きたのは、恐らく自分が人に与えられるものや、人から貰うものの価値を単純に比較できないと認識したからだ。人生の途中で「学年」「〇年入社」みたいな括りが消えたことで、同い年・同年代の子たちと能力やアウトプットを比べられることがなくなった。成績や人気度の分かりやすい指標がない世界では、自分や人をもう少し柔軟に評価できるようになるし、自分の評価が絶対ではないことにも気付く。能力に関係なく、無条件の思いやりを持って接してくれる人もいると分かる。
こういう環境にいると、条件付きではない愛の存在を信じる方向に心がシフトしてくる。

そう考えると、常に売り上げで弟妹と比べられる環境に生まれてしまったアーティーに、無条件の愛を信じろというのも厳しいかもしれない。
実際、物語の後半でオリ―が自分の思いを表現しようとものすごい行動に出ても、アーティには伝わらない。切ない。

非現実的な設定にも関わらず、読み進むうちに意外と登場人物に感情移入できてしまったのが驚きだった。
サーカスの奇怪なエピソードを挙げて終わりではなく、一家のそれぞれのキャラクターの内面や失われてゆく団欒が丁寧に描かれていて、本質的にはホームドラマだった。枝葉の部分は怪奇小説だけど。

しかし、奇怪なものが好きな人の期待も決して裏切らない。異形の兄妹たちに加え、解剖マニアの外科医、死刑囚と文通する女(不細工なのに美人の写真を自分だと偽って相手に送る!)、猟銃自殺に失敗して顔のほとんどがなくなってしまった男など、濃いキャラが続々登場。こういうキャラを思い付く作者の脳内はどうなっているのか。怖い。
丸尾末広とか、江戸川乱歩なんかが好きな人には向いている気が。

どんどん夜が長くなるこの季節。『異形の愛』、いかがでしょうか。

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